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このコラムも書きはじめてなんと丸っと14年が経ちました。
早いです。2009年9月から、お盆と正月、祝日を除いて毎週書き連ねてきました。体調が悪い日でもふとんの中で書き、どんなに忙しくても飛行機の中や新幹線の中で書いてきました。
なるべく、みなさんのお役に立つ記事を書いてきたつもりです。最近ではちょっと政治色が強くなってきてしまい反省しています。もともとは政治色は一切出さないつもりだったので。。。
コ□ナがはじまる前の日本は、どんなに政治が腐っていても自分の努力で自分の生活や会社をなんとかすることができる時代でした。
なので、むしろ政治には何も期待していませんでしたし、期待するということは人のせいにする、環境のせいにすることだと考えていました。
今は正直そうとは言い切れない状況だと思います。調べれば調べるほど、未来は一般人にとっては残念な方向に向かっています。もちろん、そんな中でもできることはやっているつもりではありますが。。。
ここまでつづいているコラムですが、このコラムの恩恵を一番に受けているのは、何を隠そう私です。
ここでさまざまな主張を発表するたびに、自分の理論がブラッシュアップされて強くなり、ビジネスシーンで活用できるようになってきましたし、過去の記事を読み直すことで自分の成長の過程を客観視することもできます。
「アウトプットすることの重要さ」をまざまざと感じております。改めて、読んでくださるみなさんに感謝です。
ちなみに、コロコロニュースは「このままじゃヤバい、ちょっとでも情報を発信しないと」と居ても立っても居られなくなり、テレビなどの大手マスコミでひた隠しにされる情報を勇気を出して発信したのがはじまりでした。2020年の5月くらいでした。
2020年の6月くらい(コ□ナはじまってまだ3〜4ヶ月)にはすでにワクワクする注射を打たせることが目的であり、その先には超管理社会が待っていると発信していました。
注射そのもののヤバさや、ワクワクパスポートの導入、気候変動や食料危機を演出されることなど、比較的早い段階で発信してきましたが、現在は順調にその方向に向かっていますね。言ったとおりになっているでしょ?(泣)
当時は「注射は絶対に打たないで」と発信したことに対し、「ワク◯ソ以外に解決策があるのか?代替案を出してから言え、バカ」と返信してくる人もいました。
ある病院の事務局長は、「みんなが注射を打ちたがらなくなるからそういう発信をするのはやめてくれ」と言ってきました(その病院は注射でたいそう儲かったでしょう)。
「論文をちゃんと読め」という返事をしてきた人もいたかな。この数年で、論文を査読していた当時の人間の権威や信頼度は失墜しましたし、逆に危険だという論文は今ではゴマンと出回っています。
しかしそういう論文があることはテレビではほとんどやりませんし、当時コ□ナは怖くないとか注射は打つなという人に対して「論文を出せ!」と言っていたヤツらはほとんど「論文」と口にしなくなりました。
もちろん「陰謀論者扱い」されたこともあります。ほんと、私の言うことがことごとく外れ、私がただのバカで間抜けな陰謀論者だったらどんなに良かったことか。。。
というわけで、今日はニュースではなく、ちょっとした言葉を紹介します。私が今後研究してみたいなと思う、石原莞爾(かんじ)という人の言葉です。
石原莞爾は満州事変を起こした中心人物とされています。「満州事変を起こした」と習うので、歴史で習う限りでは、あまり良いイメージではない。しかし、私も詳しいわけではないのですが、果たして歴史で習った額面通り受け取っていいものかと考えています。
石原莞爾はアジアをひとつにし、欧米の植民地支配から解放させるという思想を持っていたと言います。第二次大戦のたしか開戦前から核爆弾の出現を予測していて、戦争の最終形はこういった兵器が使われると言っていたそうです(たしか)。
そんな彼の言葉です。
「國は悪によっては亡ばず、愚によって亡ぶ」
うーん、痺れる。「誰の愚」かはいうに及ばずですね。あなたのことであり、私のことでもある。
というわけで、今日も「愚」にならないためのお勉強をしましょう。そんなに役に立つかわからないけど(笑)。
本日は、「曖昧さ耐性」というものについて。主にマネジメント的なお話。でも、普段私が話している「抽象度」などの話にも通じるので、私自身のためにもまとめてみたいと思います。
●「曖昧さ耐性」とは?
「曖昧さ耐性」という言葉があります。私も最近知った言葉です。
ご自身の部下やまわりには、以下のような2種類のタイプの人がいると感じませんか?
- 1から10まで言わないと仕事ができない人
- 1言ったら10理解して行動できる人
前者は自分で考えて仕事をするということができません。一言一句間違えないようなマニュアルがないと、仕事にならない人です。
対して、後者はゴールを明確にしてさえあげれば、足りない情報を自分で集めたり優先順位を自分でつけたりして臨機応変に仕事を完了させます。場合によってはゴールを明確にする必要すらないです(自分でゴール設定できる)。
つまり、「1から10まで言わないと仕事ができない人」は曖昧さ耐性が低く、「1言ったら10理解して行動できる人」は曖昧さ耐性が高い、ということになります。
たとえば、お母さんにお使いを頼まれたとします。「ネギを買ってきてくれ」と。
スーパーの売り場に行くと、白ネギからわけぎ、万能ねぎがある。ブランドもいくつかあります。深谷ネギや下仁田ネギなど。
このとき、どのネギを買って帰ればよいかわからない人は曖昧さ耐性が低い人です。お母さんに電話して、売り場にあるネギを片っ端から説明し、どれを買えばよいか「具体的な指示」を得ようとします。
対して、曖昧さ耐性が高い人はどのネギなら条件を満たすかを判断し、適当なものを買います。「適当」とは「でたらめ」ということではなく、条件を満たしているという意味です。この場合、買ってきたネギで何ら問題はありません。
さて、これを仕事に置き換えた場合、どちらの社員のほうが優秀でしょう?
まあ、当然後者のほうと言えるでしょう。
お母さん(=上司やお客さん)は楽ですよね。同じ結果を得るのに、1から10まで言わなければならないのと1ですむのとでは雲泥の差があります。
「1から10まで言わないと仕事ができない人」は、答えを欲しがる傾向にあります。私は彼らを「答えクレクレ族」と呼んでいます。
これは、暗記型、詰め込み型の学校教育の賜物だと私は考えていて、答えは
- 教科書に書いてある
- 先生が教えてくれる
- 親が知っている
- 国や行政が用意してくれている
- テレビで報道されている
など、つまり誰かがすでに答えを出していて教えてくれる、と無意識で刷り込まれてしまっている状態です。
「教育の賜物」といったとおり、残念ながら日本人の大半が今この状態なのは、コ□ナ騒動を見れば一目瞭然です。
対して、「1言ったら10理解して行動できる人」は、「答えはひとつとは限らない」、「答えがあるとは限らない」、「今ある答えらしきものが正解とは限らない」ということをほぼ無意識で理解しています。
こういった違いは、彼らが「どんな質問をするか?」を知ると、より理解できます。
「答えクレクレ族」は、何という種類の、または何というブランドのネギを買って帰ればよいかを質問します。
対して曖昧さ耐性が高い人たちは、何の料理をつくるのか、ネギを何に使うのかを質問します。つまり、「なぜ」ネギが必要なのかを質問します。
「曖昧さ」とは「抽象度」という言葉で言い換えることができます。
具体的なネギの種類やブランドを聞く質問と、なぜネギが必要なのかを聞く質問、当然ながら後者のほうが曖昧です。つまり抽象度が高いです。抽象度が高いものを理解することができるほうが、一般的には優秀とされます。
仕事の優先順位にも影響があります。「答えクレクレ族」は、優先順位もすべて指示する必要があります。対して、曖昧さ耐性が高い人は自分で優先順位を設定できます。
「抽象度」というのは、物事をどれくらい引きで(≒俯瞰で)見られるか、とも言い換えられます。当然、抽象度が高いほうが俯瞰で物事を見れています。上空に行けば行くほど、その街の全貌がわかるのと同じです。
「答えクレクレ族」は、街の建造物を一軒一軒地上を歩いて見て、街の全貌を把握しようとします。これでは全貌を把握するのに時間がかかりすぎてしまいます。
これを仕事に置き換えると、タスクを1件1件端から優先順位をつけずに片付けようとするようなものです。結局終わらない、みたいなことも頻発します。
曖昧さ耐性が高い人は、仕事の全貌を把握する力があるため、優先順位を自分で見つけることができます。街の全貌を把握しているので、どのルートで頼まれたお使いをこなしていけば効率的かがわかっているわけです。
●曖昧さ耐性が高い人だけいればいいという簡単な話でもない
会社の構造も、曖昧さ耐性≒抽象度で説明できます。以下の図のように、組織の上に行けば行くほど課題が抽象的になりますから、曖昧さ耐性が高くなければ課題を解決できません。
これはイメージがつきますよね。
たとえば喫茶店ひとつとっても、アルバイトの人はコーヒーをカップに入れるという課題(というか業務)があり、店長やオーナーになれば、どうすればもっとお客さんを呼べるかとか、売上をアップできるかなどの課題を解決することになります。
当然ながら店長、オーナーの課題のほうが抽象度が高いわけです。
なので、組織で上のほうを目指そうと思ったら、曖昧さ耐性を高めないといけないわけです。
ところがですね、現実世界は複雑なもので、ではみんな曖昧さ耐性が高ければいいのかとか、曖昧さ耐性が低い人はダメ人間なのかというと、必ずしもそうとは言えないんですよね。
曖昧さ耐性が低い人に、抽象度が高い仕事をさせてもうまくいかないというのは誰もがイメージできると思います。
では、曖昧さ耐性が高い人を、曖昧ではない仕事(抽象度が低い具体的な仕事)につけたらどうなるか。つまり、考える余地がない決まりきった仕事につけたらどうなるか。
そこで、以下のような四象限をつくってみました。
横軸は、曖昧さ耐性が高いか低いかを表しています。対して、縦軸は「ルールを遵守するタイプ」か、「ルールの外に目を向けがちなタイプ」かを取ってみました。
なぜこのような軸にしたか。「曖昧さ耐性」と「個人の性格」は別のものだと考えたからです(もちろん、曖昧さ耐性が性格に何らかの影響を与えている可能性はありますが)。
当然、「ルールどおり」のほうが抽象度が低く、「ルールの外に目を向ける」ほうが抽象度が高いわけですが、曖昧さ耐性が低いのに性格的に抽象度の高いことが好き、みたいな人もいるわけですね。
以下、A〜Dについて解説してみます。
- A:曖昧さ耐性が低くて、ルールの外に目を向けがちなタイプ
- B:曖昧さ耐性が低くて、ルールを遵守するタイプ
- C:曖昧さ耐性が高くて、ルールの外に目を向けがちなタイプ
- D:曖昧さ耐性が高くて、ルールを遵守するタイプ
Aの「曖昧さ耐性が低くて、ルールの外に目を向けがちなタイプ」は、けっこう厄介者です。私はこのタイプだと面接で分かれば絶対に採用しません。
このタイプはルールを守らないのに結果も出せない、というタイプです。言われたことをやらないのに、結果も出せない。せめて言われたとおりにやるか、言うことを聞かないなら結果を出してほしいものです。
結果が出ないどころか、ミスを連発します。なぜなら曖昧さ耐性が低いのに言うことを聞かないから。曖昧さ耐性が低いので、「なぜそのルール、やり方になっているか」に目を向けることができない、なのに言ったとおりやらない。そりゃミスるよねとなるわけです。
こう書くと、言うことを聞かない「ならず者」感があると思いますが、そんなことは一切なくて、むしろおとなしい人でもこういうタイプの人が大勢います。
個人的には40歳を過ぎて転職活動している男性はこの傾向が高く、私は残念ながら40歳以上の男性は幹部候補でもない限り採用はしません。
実生活ではニートとかはこのタイプかも。常識を気にしない、けど曖昧さ耐性が低いのでこのままだとどうなるかの想像がついていない、みたいな感じですかね。
Bの「曖昧さ耐性が低くて、ルールを遵守するタイプ」は、一般事務の人やアルバイトさん、ルート営業などに多いです。
きちんと決められたことをルールどおりにやってくれるので、大事故は起こしません。
彼らに仕事をお願いするときは、手順やマニュアルがしっかりと整っている必要があります。そしてしっかりと訓練をしてあげる必要があります。
彼らは、あまりやりがいや面白みを感じない仕事、でも会社にとって必要不可欠な仕事でも粛々とこなしてくれます。
失敗するのは、彼らに抽象度の高い仕事をさせたときです。曖昧さ耐性が低いので、答えを自分で見つけることはできません。
「うちの社員は仕事ができない」と嘆く社長の中で、わりとこのミスをしている人が多いです。つまり、曖昧さ耐性が低い人に抽象度の高い仕事をさせる=仕組みがないまま仕事をさせる。これは適材適所とは言えません。会社側に問題があります。
Cの「曖昧さ耐性が高くて、ルールの外に目を向けがちなタイプ」は、経営者や経営層の人間に多いです。
経営者や経営層の課題になってくると、ルールの外に目を向けないと解決できないことが多くなります。そのため、ルールどおりを好む性格だと解決策を導き出せない場合があります。
私なんかはもろにこのタイプで、役所の人とかとのやり取りで「いや、ルールなんで」で片付けられそうになるのが死ぬほど嫌いです(汗)。「一度つくったルールが間違っていたとしても、ルールだから仕方ない」みたいなのは愚の骨頂だと思っているタイプです。
このタイプの人は、仕事ができる人が多いです。ただ、飼いならされるのを好まないタイプなので、社内でも自由にできないと辞めてしまったり、独立すると言い出したりするタイプです。
また、Bの人がやるような「あまりやりがいや面白みを感じない仕事」をやろうとしません。「もっとレベルが高いことをさせてくれ」と感じます。「あまりやりがいや面白みを感じない仕事」もとっても大切ですが、Cの人には向いていません。
また、悪い面としては「基本をすっ飛ばしがち」だということです。曖昧さ耐性が高いため、1を言って10を知ることができてしまいます。というか、それでできたつもりになってしまうことがあるということです。結果も実際に出るでしょう(悪い成功体験)。
なので、守破離の「守」をきちんとやらない。基本をやらない。
もうひとつ悪い面があります。できない人の気持がわからない、できない人がどこでつまづくのかわからないという点です。
こうなるとマネジメントの面で苦戦しますが、それより重要なのが何よりも「仕組み化ができない」ということです。
他の人がなんでできないかがわからないので、どういう仕組にしてどういうマニュアルをつくればBやDの人がミスなく動いてくれるかがわからないというわけです(Aはそもそもあまり言うことを聞かない)。
Dの「曖昧さ耐性が高くて、ルールを遵守するタイプ」は、大手企業が新卒でほしがるタイプの人材です。
曖昧さ耐性が高いのでイレギュラーに対応できる、けどルールを乱さない。つまり、マネジメントしやすい。そして結果を出す。マネジメントしやすくて結果を出してくれるなんて、なんて優秀なんでしょう。
このDのタイプの社員が多いと企業の成長が早いと思います。しかし、当然ながらこういう人は大手が狙う人気人材です。中小企業にこういったタイプの人間はなかなか来てくれません。
DのタイプよりもむしろCのタイプのほうが中小企業に応募してきます。なぜなら「自由にやらせてくれそうだから」。
ちなみに、DからCに矢印が出ています。会社を仕組みを持って組織的に動かすには、Dの人がCに移行することが重要です。仕組み化、ルール化の重要性をわかっているからです。
Dという守破離の「守」を経験してからCに行くべきだということですね。
私は仕組み化は得意だと自分では思っているのですが、やはり性格上はCのタイプではあれど、サラリーマン時代は基本的にDだったと思います。
なにせ、新卒で入ってすぐに社長の仕事を引き継ぎ、「お前はワシのロボットになれ」とCのタイプの人間が言われて一番イヤなことを言われながらもがんばった時期が長かったからです。つまりDからCに行った人間です。
当然ながら、世の中は曖昧さ耐性が高い人間ばかりではありません。むしろそちらのほうが少ない。だから大手企業は何が何でもDの人材を集めようとする。
つまり、我々中小企業こそ、どうやってBの人材に結果を出してもらうか、活躍してもらうか、つまり仕組みを構築するかがより重要になってきます。
●曖昧さ耐性を高めることはできるのか?
では、曖昧さ耐性を高めることはできないのでしょうか。
これは、非常に難しい問題です。前述のとおり、日本の教育システムの問題も多分に絡んでいます。
かといって、日本の教育のすべてが曖昧さ耐性を高められないものになっているかと言えば、そんなことはありません。
たとえば、算数や数学には抽象度が低いところから高いところにいく訓練が含まれています。
まずは「1+1」や「1×1」といった具体的な計算の問題をやらせます。これはもっとも抽象度が低い状態と言っていいわけです。
つづいて、「りんごが1こ、みかんが1こあります。合計何個でしょう?」という文章題が出題されます。これは「1+1」の問題の抽象度が少し上がった状態です。
これが「1+1」の応用だと気づくと、りんごとみかんがそれぞれガムとキャンディーになっても同じことを問うてるとわかります。
中学生になるとこれが、文字に置き換わります。「a+b」とか「a×b」となり、aとbにいろいろな数をいれると答えがかわる、aとbという条件によって答えがかわるということを学びます。xを使った方程式などもまったく同じです。
余談ですが、私の大学時代の友人が家庭教師で教えていた子は、はじめて解いた方程式の答えが「3」だったことから、それ以降どんな方程式でも「x=3」と回答するようになってしまったそうです(笑)。曖昧さ耐性がほとんどない状態です。
でも、これって仕事と同じですよね。「この仕事は次に何をすればいいですか?」といちいち聞かないとわからないというのは、「この方程式のxは何ですか?」と1問ごとに聞いているのと同じですから。
このように、算数や数学は抽象度が低いところから入ってどんどんと抽象度を高めたことを習っているというわけです。
とはいえ、今から算数や数学を学んでも曖昧さ耐性が高まるかというと怪しいですけども。。。
おそらくですが、料理をすることは曖昧さ耐性を高める訓練になる気がしています。
はじめはレシピ通りに1品つくるところから入ります。いろいろな品をつくるうちに、「人参を切る」とか「塩をふる」とか「炒める」といった抽象度の低い概念から、「材料を用意する」「味をつける」「調理する(炒めるのか揚げるのか蒸すのかなど)」「盛り付ける」など抽象度がひとつ上がったカテゴライズができるようになるのではないでしょうか。
そして、1品しかつくらなかったところを同時に2品、3品つくれるようになるうちに、1品ずつ材料を用意するよりも、3品分一度に材料を用意したほうが効率が良いとか、お湯を沸かしている間に調味料をつくるとか、優先順位とマルチタスクの概念が体感できるようになると考えます。
私個人としては、料理ができる人は仕事もできるとわりと本気で思っています。
以前テレビでやっていたのですが、右脳型の人と左脳型の人に番組が用意した冷蔵庫を見せて、中の材料から何品の料理を思いつくことができるか、という実験がありました。
私は個人的にはこの実験は「右脳」「左脳」の話というよりも、まさに曖昧さ耐性の高い低いの話だと思いますが、番組では右脳型の人が5〜6品思いつくのに対し、左脳型の人は1〜3品しか思いつかなかったという結果が出ていました。
さて、算数や数学をやり直す(今からでは怪しいけど)、料理をする、ということは曖昧さ耐性を高めるのに有効そうですが、もっともっとプリミティブな方法があると考えています。
それは、どんな局面においても「なぜ?」を考えることです。
トヨタでは「whyを5回繰り返せ」と教わるそうですが、まさにこれは曖昧さ耐性を高める訓練になりそうです。
前述の「ネギのお使い」の話も、曖昧さ耐性の高い人は「なぜネギが必要なのか」を理解しようとするとお話しました。
これらを裏付けていそうなあるエピソードを最後に紹介します。
ある黒人がいました。その黒人の娘は現役でスタンフォード大学(たしか)に入学することができました。
まだまだ人種差別が色濃かったころに育った父親である黒人は、当然ながら教育レベルは高くなく、また収入レベル的にも娘を塾のようなところに通わせることができなかったそうです。
それなのに娘はスタンフォード大学に現役合格。なぜそんな快挙を成し遂げられたのか。
あるインタビューで、父親は聞かれます。「いったいどんな勉強をさせたんですか?どんな教育をしたんですか?」。
父親は言いました。「何もしていません。ただ、娘のなぜなぜ期がはじまったときにあることをしただけです」。
たとえば、娘が「なんで信号の【進め】は青なの?」などと質問してきたときに、答えを教えなかった、必ず「なんでだと思う?」と聞き返すようにしていたそうです。
ただそれを繰り返すだけで、娘は「なぜ」を考える人間となりスタンフォード大学に合格したそうです。
このエピソードを聞いてから、我が家も長男が2〜3歳のなぜなぜ期のときに同じことをしていました。あるとき、「なんでだと思う?」と聞き返した私に向かって長男が言いました。
「もうそれやめて!(怒)」
嫌がられました(笑)。
今回はここまでです!
投稿者プロフィール
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ロゴ専門デザイン会社ビズアップを2006年に創業。
かつてバンドで大手レコード会社よりCDリリースするも、大事なライブ当日にメンバー失踪、バンドは空中分解。その後「社長になりたい」と思いすぎてヨメの出産5ヶ月前という非常識なタイミングで、各方面から非難を受けながらも独立、5ヶ月でビジネスを軌道に乗せる。
2009年から毎週書きつづけているコラムでは、ブランディングやデザイン、クリエイティブについてかなり独特な視点で切り込む。レインボータウンFMでパーソナリティも務めている。
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