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記念すべき600号目です。なんと、毎週1回コラムを書きはじめて丸12年。
つづけるってすごい力を発揮します。私は最近、「つづけられることしかはじめてはいけない」とすら考えています。
しかし、会社経営はどうでしょうか。自分の意志だけではつづけられるとは限らないところもあります。だからこそ、つづいている会社というのは本当にすごい。
本日は30年つづいたとある会社のストーリーをお話します。多くの経営者に共感してもらえることと思います。
そのお話とは実は私の両親の会社経営時代のお話。
超手前味噌で恐縮ですがこの両親の話はかなりの好評をいただいており、このコラムで毎年1回ご紹介しています。
自分で言うのもなんですが、めっちゃ面白いと思います(笑)
新しくお客さまになってくださった方に読んでいただきたいというのと、以前読んでいただいた方にも再度何かを感じていただければ。。。
なお、前もってお断りしておきますが、本日は超長いコラムとなっています。
読みはじめていただいて今更なのですが、ぜひ3時のおやつなどの休憩時間に中島みゆき「ヘッドライト・テールライト」とともにプロジェクトX風にお読みください(笑)。
ビズアップはまだ16年目に突入したばかり。両親の会社の半分です。20年、30年、50年、100年と会社を残していきたいという想いが私にはあります。経営者になるのはかんたんです。経営者でいつづけることのほうがよっぽど難しいです。
少し前まで会社の寿命は1年とか3年とか5年とか言われていました。最近の調査では平均寿命は23年くらいのようですね。
ただ、日本には超弩級の長寿会社や100年以上つづく会社がわんさかありますので、「平均」はあまり当てになりません。「中央値」とか「ボリュームゾーン」でいうとやはりきっともっと短いですね。
このコラムのように自分の意志さえあればつづけられることとは違い、会社経営はさまざまな要因に影響されると思います。しかし、倒産や廃業の理由はやはり外部要因より経営者の内側にある気もします。
「成功者の告白」
という物語(本)をご存知でしょうか?
これは伝説のマーケッター、神田昌典氏が書いたビジネス小説です。
主人公が会社を辞め独立してから会社の成長とともに起こるさまざまなトラブルをどのように乗り越え成長していくかを描いています。
小説なのでフィクションではあるのですが、ストーリーの展開は実は何人もの社長に綿密にインタビューしてできあがったもので、これを読んだほとんどの経営者がこのとおりのことが起こると口をそろえて言います。
「なんでオレのことが書かれているんだ!?」
とおどろく経営者も多いそうです。
私はというと、この本を独立の直前に読みました。今から15年ちょっと前です。
15年前の私は起業する直前でしたのでまだ経営者ではありませんでした。それでもこの本を読んだ時にゾッとしたことを今でも覚えています。
なぜなら、「成功者の告白」に書いてあることはまさに私の父親と両親が経営する会社にも完全に当てはまっていたからです(ちなみにビズアップにも結構当てはまってます)。
私の両親は私に対してわりと厳しい人でした。
ほめられたことはほとんどありません。特に父親にほめられたのは1回しか覚えていません。大学に受かった時にひとこと
「おめでと」
以上です。
母親の口グセは「勝って兜の緒を締めよ」でした。
ちょっといいことがあったり、勉強などでいい成績を出してもほめるどころか「勝って兜の緒を締めよ」と言われる始末。
ワタクシ、高校2年生の時に数学の偏差値が東京都の中で28位になったのですが(両親がほめてくれないのでここで自慢します笑)、その時も、両親がほめてくれないことはわかっていました。
でもどうしても誰かにほめてもらいたくて、遊びに来た親戚のおばさんに28位になったことを告げました。おばさんはすごくほめてくれました。自分の自尊心、自己肯定感も満たされました。
しかし、そのおばさんが帰った後、母親は私に説教しました。
「さっきのあれはなんだ、みっともない」
高校1年生のころ、新聞配達のバイトが辛くて3ヶ月で辞めた時も、両親にさんざん言われました。
「根性なし!」
「仕事っつーのはそういうもんじゃねぇ」
「お前が選んだ仕事だろ」
とかなんとか。
さて、そんな厳しい両親でしたが、私が社会人になったころから「もうそろそろ話してもいいか」と思ったのか、母親が私の知らない昔の父親の話をするようになりました。
その時に
- 仕事はダメダメですぐ会社を辞めるため、実は転職歴が30回くらいあった
- 新宿歌舞伎町の同伴喫茶で働いていた
- 毎日夜中まで麻雀をやっていて身体を壊して入院
- 最後の会社もつづかなかったら自殺でもしようかしらと考えていた
などなど、どうしようもないダメ人間だったという事実が判明しました(笑)。
思い返してみると、父親は会社を経営してからもすごく平たく言うと、「人に厳しく自分に甘い」人でした(苦笑)。
父親は上述のとおり、最後の転職で「ここでつづけられなかったら死のう」と思ったそうです(本当かどうか知りませんが 笑)。
そんな折、入社してすぐに会社の夏休みがありました。
当時すでに結婚していた母親と千葉の海に泊まりで遊びに行ったそうなのですが(当時おそらく父親25歳、母親20歳くらい)、なんと、「これでダメなら死のう」とまで思ったくせに夏休みが明けても海から帰らなかったらしいです。。。
母親も母親で、「勝って兜の緒を締めよ」どころか、そんな父親にハッパかけるわけでもなくそのまま1週間くらい無断欠勤。これで母親と海で入水自殺でもしようものなら太宰治もびっくりの「人間失格」ぶりなわけです。
父親が勤めていた会社の社長は、それはもう鬼のように厳しい人で、傍若無人な人だったそうです。怒鳴り散らすのなんて当たり前。パワハラなんて言葉は当時はありませんでしたからね。
なので夏休みが明けて数日後、怒鳴りちらされる覚悟で、それこそぶん殴られる覚悟で辞表を持って父親は会社に出勤したそうです。
すると、そんな鬼社長が何を思ったか、なぜか「どうしちゃったの〜、つくいく〜ん、がんばろ〜よ〜」と猫なで声で引き止めてきたそうです。
それで
「これこそ本当に最後のチャンスかもしれない」
とやっと感じ(なぜこれでそう感じたのかはナゾ 笑)、急にやる気スイッチが入った父親はこの会社で5年間務め上げ独立します。
それは私が3歳のころでした。
●
私も記憶が曖昧なのですが、父親は独立前にいた会社のビジネスをのれん分けに近い形ではじめます。
業種は家庭配置薬業。「富山の置き薬屋さん」と言ったほうがわかりやすいかもしれません。東京の練馬で開業しました。
富山の置き薬屋さんはフリーミアムの先駆けとも言えるすごいビジネスモデルで、さまざまな薬が入った箱を無料で各家庭に置いてもらいます。そして、営業マンが1〜3ヶ月に1回集金に行き、使った分だけの料金をちょうだいしてきます。
富山の薬屋さんのビジネスモデルはビズアップの「ロゴ無料提案」ととても近いものがあります。もしかしたら無意識的に父親の会社のビジネスモデルから生まれたのかもしれません。
父親ははじめは間取り2Kの自宅を事務所にして、母親と2人でビジネスをはじめました。3歳の津久井少年は、家で薬箱にいろいろな種類の薬を詰める仕事を手伝っていました。
箱詰めしていて子供心によく覚えていた薬がこちら。パッケージと名前を未だに記憶していてネットで調べたら出てきました。
当時からパッケージはほとんど変わってないみたいです。
父親いわく当時はこれらの薬の仕入先メーカーさんがものすごくよい支払い条件で薬を仕入れさせてくれて、起業まもなく現金があまりない中でも軌道に乗せることができたそうです。景気も良い時期だったし人にもしっかりと恵まれていたんですね。
そのうち、前の会社の同僚や後輩が父親の会社に入社してきます。気心の知れた仲間たちが加わったわけです。私が小学校に入る直前には事務所を自宅から移し、いよいよ会社らしくなってきます。
しかし、ここで最初の問題が起きます。
私(7歳の津久井少年)が死にかけます。
●
成功者の告白には、このこともしっかりと書かれています。
両親は忙しくなってきた会社を切り盛りすることで精一杯だったのかもしれません。かまってもらえない子供や仲が悪い夫婦の子供は無意識のうちに以下のような行動を取るそうです。
- グレる(悪いことをする)
- 病気になる
なぜこのようなことになるか、それは
- 両親が協力せざるを得ない環境をつくるため
- 子供のために時間を使わなければいけない環境にするため
と言われています。
当然、子供ですから計画的にそんなことができるわけありません。引き寄せの法則、無意識の力というのはものすごい強力なんですね。
さて、津久井少年の病名は重度の肺炎。
80〜90歳で棺桶に片足突っ込んでるくらいのご老人でも年に一人か二人いるかいないか、というところまで血液の数値が悪化。学校は2ヶ月くらい休みました。薬屋の息子が病気で死にかけるとか、もはやネタかと(笑)。
入院はしませんでした。別に病院が薬屋の競合だからというわけではなく、当時のお客さまが紹介してくれた町医者の先生がものすごく優秀で、この先生の
「この子は入院させちゃいけない、気力がなくなったらやばい」
という言葉で両親は入院ではなく自宅療養を選択したのでした。
当の津久井少年は先生の作戦が見事にハマったのか、自分の病気の重大さにはまったく気づいていませんでした。
一日中布団で横になっていなければならなかったのはとても退屈でした。だけど、おみやげなど一度も買ってきたことのない父親が当時流行っていたゲームウォッチを買ってきてくれたり、アニメソング集のカセットテープを買ってきてくれたり。めったにないことだったのでものすごくはしゃいでいました。とても死にかけているとは思っていませんでした。本人は気楽なもんです。
しかしながら、津久井少年の病状は一向に良くなりませんでした。病院の先生は長引く病状の解決策として私にものすごく強い抗生物質を飲ませる決断をします。
副作用が心配だという母親に
「でも、(命を)持ってかれたらしょうがねえだろ!」
と怒鳴ったといいます。
まあ、私は自分でも頭がオカシイ部類の人間だと思っていますが、今思うと当時の薬の副作用かもしれません(笑)。
先生の判断と本人のお気楽さでひとまず命だけは持っていかれずにすみました。
ちなみに病気になる何ヶ月か前に母親とこんなやり取りがありました。
津久井少年「夕飯にビーフシチューが食べたい」
津久井 母「そんなもん、(仕事で)クソ忙しいのに作れるか!」
肺炎の時の夕飯、なんとビーフシチューが出てきました。もう本当に死ぬと思ったのでしょう。。。最後に旨いもん食わせてやろうという(笑)。
●
津久井少年が8〜9歳のころ、父親の会社「太平薬品株式会社」は従業員数も7〜8人になっていました。そのうちの5人くらいが営業マン。中には前述の元同僚や後輩もいます。
そして、このころになると会社に暗雲が立ち込めてきます。
気心の知れたはずの仲間が父親に対して心を閉ざし、反発し、まじめに仕事をしなくなります。
友達のような関係だったのが、上司と部下という上下関係がついたためでしょうか。経営者と雇われている立場の人とでは、どうしても相容れないところも残念ながらありますからね。
朝はみんなで会社の外にたむろし、たばこを吸いながら父親の悪口をいう状況。当然、会社としての成長など望むべくもない状態。父親も相当ストレスだったでしょう。
起業してから初の組織的試練。それを救ったのは一人の新入社員でした。
父親は当時、車にはまったく興味がない男でした。なのでプライベートで遊びに行くときも薬を積んだままの軽の営業車。
そして、借りている事務所もとても立派な建物ではなく安くて古くてボロボロの木造家屋。
そんな中、ピカピカのトヨタのマークツーを乗り付けて面接に来た一人の男。
「本当にここでいいのか??」
といった怪訝な表情を浮かべながら入ってきたその男は名前を「大谷(おおたに)」と言いました。
大谷さんは別の会社で家庭配置薬業の営業マンの仕事をしていた経歴を持ち、年齢は30歳手前くらいでした。
面接に即合格し入社した大谷さんは熱い人でした。
「オレは一生社長についていきますよ!」
と大谷が言ってくれたと喜んで母親に話す父親を今もよく覚えています。自分もそうですが、経営者は意外とこういう言葉に弱いですからね(汗)
大谷さんの影響力は絶大で、まず父親は車をマークツーにしました(笑)。
大谷さんより前からいた営業マンは毎朝のセレモニー(たむろ)に大谷さんを呼びつけ、「お前もこっち派になれ」といった中学二年生女子の派閥争いのようなしょうもないことに大谷さんを巻き込もうとしたようなのですが、大谷さんはきっぱりと断ります。
そして何より大谷さんは仕事ができる人でした。会社の売上も伸びました。
また、大谷さんは自分の後輩や元同僚など見どころのある人間を太平薬品に引きこみました。そういった新人が2〜3人くらい入ったころには、たむろしていた営業マンが少しずつ退社し最終的には全員いなくなっていました。メンツがまるっきり入れ替わってしまったのです。
時代はバブル全盛ということもあり、そしてできる営業マンがさらに増えた(6〜7人くらいになった)ことで会社は伸びに伸びます。
大谷さんひとりが入ったことがきっかけで、どん底だと思われた太平薬品はV字で復活しました。
父親と従業員の仲もよく、我が家にみんなで遊びに来て酒を呑んで場合によっては泊まっていく、なんてこともしょっちゅうでした。私自身も当時の従業員さんにとてもかわいがってもらいました。小学4年生とか5年生、6年生のころ。
こういった会社が丸っと生まれ変わってしまうようなことも成功者の告白にはしっかりと書かれています。
●
成功者の告白にはこんなことも書かれています。
- あるタイミングで社長に愛人ができる
父親の「そのタイミング」も本に書かれていたタイミングとドンズバで当たっていました。確証はないのですが、おそらく私が小学6年生から中学1年生のころに父親に愛人がいたように思います。
母親との仲もなんとなく悪くなり家には冷たい空気が流れていました。
私自身も「新宿のLと言いますが津久井社長いますか?」という思い詰まったような声の女性からの電話をとったことがあります。
当時の津久井少年は「やめてください!!!」と大声で怒鳴り電話をガチャ切りしてしまいました。ただ、今思い返すとそれは愛人というより店の子だったかもしれません(笑)。
そして、「両親の不仲」というしかるべきタイミングだったのでしょう。私(13歳の津久井少年)がまた病気になります。
急性腸炎にかかりました。このときは正直死ぬかと思うくらい苦しかったです。
汚い話ですが、40度以上の熱がある中、上から下から止まらず意識が朦朧としつつもトイレからなかなか出られない、出てきても気持ち悪いか下痢のどちらかで1分後にはまたトイレに戻らざるを得ない状況。
この時は病状としては肺炎の時ほどではなかったのですが42度近い熱が3日くらいつづきました。体感では前述のとおり肺炎よりはるかにきつかった。。。
これは旅先(親戚の家)でのできごとだったのですが、病院で点滴をうける私を心配そうに見ている両親の顔をよく覚えています。
両親がだいぶ思いつめた顔だったので、それを見て「悪い病気なのかも、本当に死ぬのかも」と思いました。ただ、今思い返すと高い熱が出はじめた私を親戚の家に置き去りにし、その親戚とゴルフに行き、帰ってきたら私がさらにエラいことになっていたことによる「やべ、やっちまった」の顔だったのかもしれません(笑)。
結局このときは病院のベッドに空きがなく、入院できず追い返されるという始末。なので、なぜか今まで入院したことが結果的にありません。
一週間は断食の回復食のような味のない重湯と味噌汁の上澄みしか口にできませんでした。親戚の家(長野)から東京に帰る体力もなく学校も2週間以上は休みましたかね。母親は私のせいで仕事に戻れませんでした。
そのころの太平薬品は仕事はなんとなーく暗い雰囲気でした。景気はバブルも崩壊に向かっていました。
第二創業とも呼べるタイミングで入社し会社をV字回復させた営業マンたちは、ある者は残り、ある者は独立し、ある者は転職していきました。新しく入った営業マンは仕事はできるとは言いがたく。。。会社の勢いはすっかりなくなってきていたのです。
そんな中、第2の組織的試練(トラブル)がやってきます。
そのトラブルを起こしたのは、会社のNo.2、大谷さんでした。
●
とあるお客さまからクレームが入りました。
「おたくの社員の大谷さんはとんでもない人だ!」
事情をお聞きすると耳を疑うような話でした。なんと、大谷さんがお客さまに「金を貸してくれ」と言ったというのです。
大谷さんを問い詰めてみるとなんとそのお客さまだけでなく数人のお客さまに声をかけており中には本当に貸してしまったお客さまもいたそうです。
太平薬品株式会社は決して給料の安い会社ではありませんでした。
安いどころか、むしろ仕事が出来る人には成果報酬で80万から100万くらいの月給は出していました。大谷さんも然りでした。そして大谷さんの奥さんは保険のセールスレディーでボーナスで100万円くらいもらうほどの人でしたから、世帯年収的にはゆうに1500万以上はあったと推測します。
なのに米を買う金すらないということでした。ひどい時には電気やガスも止められていたそうです。
原因は子供です。子供に対しての見栄が度を超えていたのです。
高い私立の幼稚園に通わせブランド物の子供服を着せ高い塾に行かせてお受験をして。稼いだお金をみな子供につぎ込んでいたのです。お金がなくなってもそれを止めることができず、感情のコントロールを失った大谷さん。それでお客さまに「金を貸してくれ」などというとんでもないことを言って回っていたわけです。
そして、大谷さんは会社を去ります。私が高校生の時でした。
家族ぐるみの付き合いをしていた太平薬品No.2の大谷さんが辞めると聞いた時の驚きは私の中でも本当に計り知れないものでした。
なんとなく暗い雰囲気の会社や両親、かつて活躍した社員たちの退社、大谷さんの不祥事と退社。
太平薬品は大丈夫なのだろうか。事情がわかりきっていない私ですら心配になりました。
時はバブル崩壊後の不景気のまっただ中。営業マンも仕事に対しての情熱を失った人ばかり。家では父親と母親の会社への愚痴をよく聞くようになりました。
こんなこともありました。
新人を入れようということになり面接に来た若い男を父親が大いに気に入り、喜び勇んで家に帰って母親に「あいつはいいぞ〜!」と興奮しながら伝えたその新人が1週間で飛ぶ(会社に来なくなる)とか。。。
太平薬品の仕事は基本的に1日中車を使っての営業なので、自分の彼女を車に乗せてドライブデートしながら仕事を適当にこなす、なんていう新人もいました(こういうことは結局バレる)。
仕事はできないけど一生懸命だから諦めずに育ててみようと父親が心血を注いで教育をしていた藤原という社員は、そもそも車の運転が下手でよく事故っていました。車を使う仕事で運転が下手なのは致命的です。事故を起こしたり免許停止などになったらとんでもないことです。
次に事故ったら免許停止(≒クビ)というある日、東京に雪が降りました。父親は免停直前の藤原さんに、
「いいか、雪だからな、ブレーキ踏むなよ」
と言いました。スリップしたりスピンしたりするからブレーキをかける時は気をつけろよ、急ブレーキはダメだぞ、そんな意味合いだったのですが、言葉の綾は通じず、藤原さんは本当にブレーキを踏まず、そのまま前の車につっこみ(オカマを掘り)免許停止になりました。
ちなみにこの藤原さんは、風のうわさでは現在タクシードライバーをやっているそうです(笑)。
大谷さんが辞めてからというもの、反抗する社員がいるとか、悪いことをする社員がいるとか、そういったはっきりとしたトラブルではなく、やる気がない、稼げなくても暮らせればいい、仕事なんて仕方なくやっているだけ、こういう社員ばかりになってしまいいつのまにか蝕まれていく病気のような状態に。
またしても組織崩壊の危機でした。
何より、当の父親自身もたいしてやる気があるように見えませんでした。社長のくせに軽く出社拒否症になってました(爆)。
会社は今のビズアップと同じくらい、できてから15年くらい経っていました。このままダメになってしまうのか。。。
このとき奮起したのが、なんと母親でした。
●
当時の母親はスーパーマンのような人でした。
朝5時に起きて風呂に入り、風呂を出てから朝飯と私の弁当をつくり、父親と私を送り出してから洗濯と掃除。
掃除機は先端が細いノズル(隙間などに入るやつ)を標準仕様にしており、じゅうたんや床を這いつくばりながら隅から隅まで毎日掃除していきます。母親にとってはノズルは消耗品。毎日家中を掃除機の「ノズルがけ」するので鉛筆のようにどんどん削れていってしまうのです。
そんな家のことをひと通り済ませて化粧をして10時までに会社に出社。営業部長をしていた母親は着いてそうそう電話をかけまくりアポを取って営業車に乗って集金に。
夕方は6時半ころ買い物を終えて家に戻り、父親が帰ってくるまでの1時間で夕飯の支度。父親は自分が帰ってきてご飯ができていないと機嫌が悪くなるタイプの男でした。なので、1時間で完成できる数品しかつくれません。ビーフシチューなどつくっっていられないのです(笑)。
もちろん、そういうタイプの男(父親)が食事の準備や片づけを手伝うなんてことは皆無。そんな母親の食事の後片付けがまたすごくて皿洗ってゴミ捨ててなんていうのはもちろんのこと、キッチンを隅から隅まで毎日雑巾がけしていました。
これが休みの日を除いて毎日何年もつづいていました。
さらに母親は営業以外に経理的な仕事もしていました。決算月にはすべての資料をつくっていました。
さて、当時の家庭配置薬業界は「営業は男」という迷信的、盲信的、前時代的な考えがはびこっていました。太平薬品も例外ではなく、母親を除いてずっと男の営業マンを採用していました。
しかし、やる気が無い男連中(父親含む)が会社をどんどん蝕んでいく状況で、ある意味「男に見切りをつけた」母親が営業は女性にすることを父親に提案・進言します。
はじめは父親も抵抗していました。しかし、母親の言うとおりなぜかダメな男ばかりが集まってしまう状況で、他にたいした打開策もありませんでした。
そして父親は営業を女性にすることを決断します。
父親は東京の家庭配置薬業界にわりと顔が利く人で、同業者を取りまとめる会の会長なども一時期やっていました。なので、東京で太平薬品株式会社と言えばわりと業界では知られていたのですが、その太平薬品が営業マンをみんな女性に代えているという話は業界でまたたく間に知られるようになり、
「あそこも終わったな」
という評判が出回るようになりました。
ところが、これが大当たり。実際の成果は目覚ましいものがありました。業績はまた上昇しはじめました。会社にも活気が戻りました(戻ったというかおばちゃんならではの活気になった 笑)。
「もうダメかも」
というピンチで何かが起き、そのたびに組織がガラッと変わってまた成長をしはじめる。
「生まれ変わる」
という言葉がもっともしっくり来るようなことが本当に起こるんです。
こういったことも成功者の告白にはきちんと書かれています。成功者の告白を読んでいたら父親の社長人生とどのくらいリンクするかおわかりになっていただけるかと思います。
さて、長くなってしまいましたが、最後に太平薬品株式会社と両親のその後をお話します(プロジェクトXだとこのあたりから中島みゆきの「ヘッドライト・テールライト」が流れます 笑)。
会社は結局30年つづきました。
しかし、ちょうど30年目の2009年、業績不振を理由に会社を売却しました。ビズアップができて1年半くらいしたころです。
家庭配置薬業界は衰退の一途。業界一位の富士薬品(TVCMもしている)ですらドラッグストアを展開する状況。
「買ってくれる人がいるうちに売ろう」
とてもさびしい決断でしたが会社を売却し、借金を精算して終了。
ちなみにその2ヶ月後に業界二位が倒産。もしもそのあとであれば太平薬品は二束三文でしか売却できなかったかもしれません。そうしたら両親はいまだに借金返済をしていたかもしれません。なんというタイミング。。。
会社を売却したことでそこそこの現金を手にした両親は、
「もう一旗挙げたい」
と中国にある会社を買おうとして騙されそうになります(爆)。契約の直前にその親会社の日本人社長が株の51%を自分の中国人の愛人に持たせるとごねてきたそうです。
結局大ゲンカになり契約直前で破綻。まあ「あるある」っちゃそうなんでしょうけどなんともな感じです。。。
それでもめげずに突然ベトナムに移住。ハノイの日本大使館前で日本人向けの居酒屋を開店しました。
偶然ですが、弊社のロゴディレクターの林はビズアップに入社する前の仕事で両親が運営するベトナムのお店に行ったことがあったそうです。うちのおかんの生姜焼きを食べたことがあるという不思議。。。(笑)
店の業績としては両親が老後の貯蓄をするには十分すぎるほど利益が出ていたようですが、体の具合が悪くなって二年弱で帰国。スーパーマンのおかんは10kgくらい痩せてガリガリ(40kg台前半)になって帰ってきました。
今は父親は墓場でアルバイトをしています。おかんはなんと、ビズアップの経理を手伝っています。
ちなみにそんなおかんはちょっと前までベトナムに戻りたいとたまに言ってました。スーパーマンです(笑)。女性は強いですね。
さて、長くなりましたがお話はここでおしまいです。ちょっとでも面白いなと感じてもらえたらうれしいです。
パート2として、私が大学2年生の時に両親が太平薬品をほったらかしてホットドッグ屋を開いて失敗した話(笑)もあるので、今度お話しますね。
「成功者の告白」、読んだことがないようでしたらぜひ読んでみてくださいね!
最後にもうひとつ。
冒頭に、父親は一度しか私のことをほめたことがないと言いました。
そんな父親ですが、私の結婚式の最後の親族の挨拶のときの話です。
人前で泣くところを見せたことがない父親が、なんと顔をグシャグシャにして鼻水を垂らして号泣(私も人前では泣けないです、父親譲り)。母親は泣くだろうなと思っていたのですが、まさかの父親の号泣に母親含めそこにいた全員が苦笑、失笑。「しっかりしろー(笑)」なんていうヤジも飛んだりして。
私も笑いました。でもとても感慨深いものがあり思わず涙ぐんでしまいました。
その時に、父親は厳しいのではなく不器用だったんだなと理解しました。きちんと自分のことを見て気にかけてくれていたんだと。
当たり前ですが当たり前のことに人はなかなか気づけないですね。私も子どもができてやっとなんとなく父親の気持ちがわかってきた気がしています。
父親が人前で大泣きをしたのは2回だけだそうです。
私の結婚式が1回。
そして2回目は太平薬品を手放すとき、その最後の日の朝礼のときだそうです。
今回はここまでです!
津久井
投稿者プロフィール
-
ロゴ専門デザイン会社ビズアップを2006年に創業。
かつてバンドで大手レコード会社よりCDリリースするも、大事なライブ当日にメンバー失踪、バンドは空中分解。その後「社長になりたい」と思いすぎてヨメの出産5ヶ月前という非常識なタイミングで、各方面から非難を受けながらも独立、5ヶ月でビジネスを軌道に乗せる。
2009年から毎週書きつづけているコラムでは、ブランディングやデザイン、クリエイティブについてかなり独特な視点で切り込む。レインボータウンFMでパーソナリティも務めている。
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