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最近、youtubeでハマっている番組があります。
「Nontitle」という番組で、カンタンに説明すると「起業版テラスハウス」みたいな番組です。
「テラスハウス」は複数の男女がひとつ屋根の下に住んで恋愛する、という番組ですが(ちゃんと見たことないのですが合ってますよね??)、Nontitleは複数の男女がひとつ屋根の下に住んで2つのチームをつくり、3ヶ月で投資家から出資を受けられるビジネスを構築する、というものです。
司会は格闘家の朝倉未来とYouTuberのヒカルです。
正直、ここまで面白い番組がyoutubeでタダで見られる時代なんだと感心してしまいます。
Nontitleはシーズン4まで出ており、シーズン5が始動したところです。過去のシーズンでは実際に投資家から出資を受けてビジネスをスタートし、現在もうまくいっているビジネスもあれば、頓挫してしまったビジネスもあります。
個人の能力もスキルも違う中でさまざまな人間模様がビジネス構築のための課題に影響します。
中でもやはり考えさせられるのは、「負けず嫌い」「諦めない」というメンタリティが、物事の成否にとっていかに重要か、ということです。
また、朝倉未来とヒカルが思いの外鋭い意見をいい(といったら失礼かもですが)、「この人たちは地頭がいいんだな」ということがよくわかります。
Nontitle、おすすめです。ぜひ見てみてくださいね。
というわけでコロコロニュース、といきたいのですが、筆を執ってみたらめちゃくちゃ長ったらしいコラムになってしまいましたので、今日はお休み(書き終えるのに3時間半くらいかけてしまった汗)。
本日のお話です。
例年、新年2号目のコラムは「このコラムをもっと楽しんでいただくための用語集」をお届けしているのですが、それは今年は来週か再来週に持っていくこととしまして、本日は所感となります。
冒頭でもお話した「負けず嫌い」がいかに重要かについてお話してみたいと思います。
●「勝てるコーチ」と「勝てないコーチ」
私は少年サッカーのコーチをしています。
いわゆる「街クラブ」と呼ばれる小学校を主体としたチームです。少年サッカーは街クラブ以外には「クラブチーム」というものもあり、これはエリアや学校などとは関係なくチームをつくっています。
例えるならば、「街クラブ」が公立の学校、「クラブチーム」が私立の学校のような感じです。
クラブチームは給与をもらってコーチをしている人がほとんどであり、その道のプロです。対して街クラブは私のようなボランティアがほとんどです。なので、実力においては街クラブよりもクラブチームのほうが強いケースが圧倒的に多いです。
そんな中でも、私たちのチームは「街クラブの星」なんて言われるくらい強く、クラブチームとも拮抗した勝負ができる学年もあります。強いのでとなりの小学校から越境してくる子もいるくらい。
私は自分の長男が入ったチームでいつの間にか当時のコーチ陣や保護者に外堀を埋められ、トドメはうちのヨメに刺されてコーチをはじめることとなりました。
子どもの送迎やお当番などがけっこう大変なのですが、お父さんがコーチをするとお母さんは当番が免除されるし、お父さんが練習や試合に自分の子どもを連れて行くので、お母さんは圧倒的に楽なわけです。それでトドメを刺されました(笑)。
そして、次男が卒団してもなお、私だけは卒業させてもらえず(まあ好きでやってますけどね)。。。気がついたらコーチ歴9年目(汗)。
私はヘッドコーチ(≒監督)ではなく、サブコーチというポジションです。ヘッドコーチもやってみたいですが、仕事(業務の処理や出張)などで休みがちなことが多いため、サブコーチをやっています。
昨年12月も1dayの大会があったのですが、そこで予選リーグで1勝もできずに敗退してしまいました。めちゃくちゃ悔しかったのですが、あまり悔しがっている子どもがいなかったり、何ならヘッドコーチも「仕方ないよ」的な感じだったため、ひとりでイライラしてしまいました。
さて、私はサブコーチとしていろいろなヘッドコーチを見てきましたが、結果を出せるヘッドコーチ、出せないヘッドコーチの違いはなんだろうと観察していると、決定的な違いに気づきます。
その違いは、
- 優しい(コーチ)
- 厳しい(コーチ)
です。どちらのコーチのほうが強いチームになるかわかりますか?
それは圧倒的に「厳しいコーチ」です。
意外でしたか?最近では「厳しくすることに意味はあまりない」とか、「選手の気持ちや行動を尊重して」とか言われがちですが、私が9年間コーチをやってきた中では、優しいコーチは「圧倒的にダメ」です。
「優しいコーチ」「厳しいコーチ」という言い方だと語弊がありそうなので、もう少し詳しく説明します。
優しいコーチの特徴は、一見、子どもの意見を尊重しているようです。試合に負けても「次、がんばろう!」というポジティブな声掛けをしています。それなのに勝てないんです。
「一見、子どもの意見を尊重しているようです」といいましたが、子どもの意見を尊重しているようで、「それは迎合しているだけでは?」という言動が多かったりします。
たとえば「どこどこのポジションはイヤだー」と子どもがわがままを言ったとき、「じゃあここにしようか」と別のポジションを提案してしまったりします。
対して、厳しいコーチは、「うるせー、ポジションを決めるのはオレなんだよ!」と一喝したりします。
別に普段から子どもに対して暴言を吐いたりするのが厳しいコーチということではないんですけどね(暴言、暴力はサッカー協会から禁止されていて、コーチは毎年覚書に署名する)。
なんていうんですかね、厳しいコーチは子どもから「畏怖の念(尊敬と恐怖が合わさったような想い)」を抱かれているという感じです。
厳しい口調だから畏怖されるわけではなく、そもそもの普段の佇まいとか考え方からにじみ出る雰囲気とかに畏怖の念を抱き、だから多少の厳しい言葉遣いも許されているという感じ。
厳しいコーチは練習中に「集合」の号令をかけたとき、子どもたちがすぐに集まります。コーチからのお話も、ほぼ全員がコーチを真剣な眼差しで見て聴いています。
対して、優しいコーチは「集合」の号令をかけてもチンタラする子がいたり、話もきちんと聴かずにとなりの子とふざけたりしてしまいます。
普通は厳しいコーチのほうが「話を聴け!」と言いそうですが、不思議なもんで優しいコーチのほうが、話を聴くようにたしなめる(優しいので厳しい言葉はあまり使えない)回数は圧倒的に多いです。厳しいコーチは「話を聴け!」という必要がないわけです。
「子ども個人個人によって違うんじゃないの?」と言われそうですが、それがそんなことはないんです。同じ子どもでも、優しいコーチの前と厳しいコーチの前では態度がぜんぜん違う。優しいコーチの前ですぐにふざけてしまう子も、厳しいコーチの前ではまったくふざけません。急に真剣になります。
かんたんに言えば、優しいコーチは子どもたちから舐められているわけです。
私の次男の代のMコーチは、まさに優しいコーチの典型でした。試合には勝つほうが珍しく、いつも「次がんばろう」的な声をかけていました。選手を叱ることはほとんどありませんでした。下手したら1度もなかったかもです。
次男が6年生になったとき、5年生のヘッドコーチをしていたKコーチから、6年生vs5年生の紅白戦を挑まれました。結果は6年生がチンチンにされました。小学生年代の1学年って、運動能力や体格にけっこうな差があるのに、太刀打ちできませんでした。
この結果を受けて、「クラブのトップチーム(6年生)が弱いのはまずいから、3ヶ月だけでいいからトップチームのヘッドコーチをさせてほしい」とKコーチから申し出があり、Mコーチはしぶしぶ3ヶ月間だけヘッドコーチの座を譲りました。
私としてはとてもよいことだと考えました。Mコーチの指導方針に疑問を持っていたので、Mコーチ自身がKコーチから学ぶことは多いだろうと思ったし、3ヶ月の限定であれば、3年生からチームを見ているMコーチの顔も立てられます(最後の大会である全日本の予選はMコーチが陣頭指揮を取れる)。
そんなKコーチの1発目の指導の最初の話は「オレが集合をかけたら5秒以内にあつまれ」でした。
Kコーチが陣頭指揮を取ってから、チームは見違えるように変わりました。
まず、すぐに仲間のせいにしたりMコーチにわがままをいったり反抗していたチームで一番上手な子が、びっくりするぐらい真摯にサッカーに取り組むようになりました。他の学年のコーチや保護者、誰が見てもすぐに気づくほどに。
もちろんその子だけではありません。我が子も含め、他の子への影響もとても大きかったのです。そして特筆すべきは、試合に負けて悔しがる子が増えてきたことです。うちの次男もそうでした。「勝ちたい!」という気持ちが芽生えはじめたのです。
たった3ヶ月で、こんな違いがあるわけですね。
では、優しいコーチと厳しいコーチ、同じ練習メニューを行わせるとしたら、どちらのほうが子どもたちは上達するでしょうか。言わずもがなです。
厳しいコーチは、叱るにしても褒めるにしても、その影響力が非常に大きいです。厳しいからこそ、褒められたときに子どもたちの自己肯定感や達成感はめちゃくちゃ高まります。
しかし、優しいコーチは叱っても褒めても、子どもたちに対してあまり影響力を発揮できません。かんたんに言えば、どちらにしても子どもたちのリアクションが薄いわけです。練習メニューの精度ももちろん重要ですが、どんなに良いメニューを考えたとしても、優しいコーチではその効果は期待できません。
ちなみに余談ですが、Kコーチの指導と子どもたちの変化を目の当たりにした私は、Kコーチの続投を望みました。
というのも約束通りKコーチは3ヶ月でMコーチにヘッドの座を戻したのですが、子どもたちとは打って変わってMコーチはまったく成長していなかったのです。びっくりしました。
そこで、私はKコーチの指導とMコーチの指導の違いをメモりまくり、Mコーチに「見ます?」と聞きました。たぶん見たらショックで辞めるかも、と思ったのですが、本人も「見たい」とのことでしたので。。。そしたら案の定辞めました(汗)。
でも、結果的には良かったと思います。子どもたちには、勝てなかったとき、達成できなかったときに「ちゃんと悔しがる」という感情を芽生えさせることができたと思うから。
この能力は社会人になったあともものすごく重要な能力だと思います。「人に勝つ」ことも重要ですが、人に勝とうとするなら、まず「己に勝つ」必要があるからです。
なお、Kコーチの話だけがフィーチャーされてしまいましたが、チームで結果を出すヘッドコーチはあと3人くらいいて、みんなこんな感じというか、子どもから良い意味で畏怖の念を持たれています。
●実はとっても残酷な行為とは?
では、どうすれば「負けず嫌い」になれるのでしょうか?
もしかしたら「大人になってからでは難しい」という身も蓋もない話になってしまうかもしれませんが、どうすれば「負けず嫌い」になれるかの前に、ある2つのお話してみたいと思います。
元女子プロゴルファーの横峯さくらさんの伯父で幼稚園を経営していた横峯吉文さんは、以前テレビでこういっていました。
- 「子どもはみんな競争したがり」
横峯吉文さんはヨコミネ式教育を開発した人です。幼稚園の生徒全員に逆立ち歩きをさせたり小学校に上る前から算数や漢字を覚えさせたり。テレビで見ていた当時、相当ビビりました。5歳くらいの子が全員逆立ち歩きで体育館の端から端まで移動するんです。
子どもってすごい、人間の能力ってすごい、とめちゃくちゃ感服したのを覚えています。そんな横峯吉文さんが言った「子どもはみんな競争したがり」は当時の私(まだ子どもはいませんでしたが)に深く刺さりました。
ちょうどその前くらいから「ゆとり世代」だからなのか、運動会の徒競走では順位をつけないとか、学芸会では主役がいないような劇にするとかが蔓延していて、「バカなんじゃないか(失礼)」と思っていたからです。
子どもはみんな競争したがりだとしたら、「競争しなくてもいいよ」「競争で負けても精一杯やったんだから悔しがらなくていいよ」というメッセージは、本能に反するメッセージです。
このようにして幼いころから牙を抜かれてしまうと考えるとゾッとします。Mコーチの声掛けは、子どもを瞬間的には傷つけないかもしれないけれど、そのときにしか手に入れられない大切なものを一生失ってしまうかもしれない残酷な行為だったと私は考えます。
ちなみに「子どもはみんな競争したがり」という言葉を覚えていた私は、それをサッカーのコーチでも活用しています。
たとえば、優しいコーチが「集合!」と言っても子どもはなかなか集まりません。それを見ている保護者もやきもきして、「ほら!集合って言われてるぞ!」と叱ったりしますが、子どもはチンタラしたままです。
そこで、こう言うんです。「よし集合!ビリは誰かな?!」。
びっくりするくらい迅速に動きます(笑)。みんな競争したがりで、ビリになりたくないわけです。まあ、こういうテクニックを使わざるを得ない時点で、私も「厳しいコーチ」にはなれていないのでしょう(汗)。
つづいては「直感的思考段階」と「論理的思考段階」というお話。何やら難しそうな漢字だらけの単語が出てきました。
これは、「バカとブスは東大に行け!」というキャッチコピー(?)でおなじみの「ドラゴン桜」の著者、三田紀房先生のマンガ(どのマンガだったか忘れました)に出てきたものです。
たとえば、「子どもを殴ることはいけないことか?」という問いに対して、みなさんはどう思いますか?
「暴力はいかんよ!」と思うかもしれませんが、なぜでしょう?子どもの心が傷を負うから?それは一生残る傷なんでしょうか?
「ふてほど世代」という我々昭和の人間は、ぶっちゃけよく殴られて育ちましたし暴言も浴びました。親からも学校の先生からも殴られたりキツく怒られたりしました。おそらく今なら「パワハラ」と言われるくらいには。
では、我々「ふてほど世代」は一生の傷を負ったでしょうか?今もあのときの恐怖が忘れられなくて、自分の行動に制限をかけてますか?
もちろん、「人を殴ってOK」という話をしているわけではありませんし、どんな事情があれ、やりすぎたらダメという程度問題もあります。しかし、叩いたほうがよいケースもある、というのが「直感的思考段階」と「論理的思考段階」の話です。
思春期までの子どもは、意味を論理的に理解する力がまだ育みきっていないと言われています。このころの子どもの思考はほとんどが直感的に行われます。思春期を超えてくると、論理的な思考が可能になります。
つまり、論理的に解釈ができない段階では、多少の恐怖心を伴っても直感的に「やっちゃいけないんだ」「言うことを聞くべきなんだ」と感じさせる指導が必要になります。
論理的思考段階に入ってくると、「なぜそれをやってはいけないのか?」「なぜ言うことを聞くべきなのか?」という理由をともに説明しなければ相手は(子どもは)納得しなくなってきます。ここで、「親の言うことを子どもは聞くもんだ」という理由なき価値観を見せると、子どもは反抗します。
この話を知ってわりとすぐに、子ども(当時3歳くらい?)を連れて公園に行きました。我が子をはじめ、多くの子が砂遊びのためにバケツに水を入れたいと、水道に並んでいました。
その先頭を見ると、ひとりの子(5歳くらい?)が蛇口を締めたり開けたりして周りに水を飛び散らせて遊んでいて、他の子が並んでいるのも何のその、なかなかどこうとしませんでした。
横ではそのお母さんらしき人が一生懸命に語りかけています。
「◯◯くん、ダメよ!ほら見てごらん!周りに人に水がかかりそうでしょ!ほら、後ろはお友だちがたくさん並んでるでしょ!みんなに迷惑だからやめて一度どいたほうがいいよ!」
的なことをずーーーっと語りかけているのですが、その子どもはフルシカトでした。本当に親子か?と疑うくらいシカトしてました。
おわかりかと思いますが、このお母さんの言動は論理的思考段階の子に対して行うことです。直感的思考段階の子には「こらっ!!!!」と叱って強引にどかすとか、場合によってはゲンコツするくらいのことがおそらく必要です。
そうすると、「なんで怒られたかはわからないけど、これをやると怒られるんだ」という直感的解釈を子どもはします。そして、これを繰り返すと徐々にしないようになります。
このお母さんの言動は、まるで「優しいコーチ」のそれそのものですね。
この2つの話からわかることは、「負けず嫌い」を育むには、「競争したがり」という心理と「直感的思考段階」を理解した指導が必要ということです。
奇しくもMコーチはどちらも真逆の行為をしていました。
●「負け」に価値を与える条件こそが「負けず嫌い」
もしかしたら「大人になってからでは難しい」という身も蓋もない話になってしまうかもしれませんが、と前述しましたが、2つの話はどちらも幼少期に関わる話です。
ここで私の持論をひとつ。
我々は「能力」と「スキル」という言葉を使い分けています。どちらも似たような言葉ですが、明確に切り分けています。
「スキル」は「パソコンスキル」などの言葉に代表されるように、おとなになってからでも身につけられたり、人から教わることができるものだと考えています。
対して、「能力」は誰かから教えてもらうことはできません。「能力」には例えば、
- 負けず嫌い
- 努力する力
- 約束を守る価値観
- 継続力
- ポジティブなマインド
- 諦めないマインド
- 地頭
- カリスマ性
などなどがあります。他にもたくさんあると思います。
大学受験をがんばった人は「努力する力」が身についていると考えます。冒頭の「Nontitle」では「負けず嫌い」や「諦めないマインド」を備えている人が勝ち残っている印象です。
これらは人から教わるのは難しい。「負けず嫌いになる方法」はちょっと想像がつかないですよね。
おとなになってからでもこれらの能力が身につくことはあります。でも難しい。死にかけるなどの大きなショックを受けた人などが人が一気に変わったようになることがありますが、それも稀です。
おとなになってからでも自分を変えられるとしたら、それは「環境」だけでしょう。しかし、その「環境」に飛び込むのも、また違う能力が必要そうです。
経営者が社員にできることは、「環境」を与えることだけなのかもしれません。ただし、ショックを与えられるのと違って「環境」を与えてもすぐには能力は身につきませんから、長い目で見なければなりません。それと会社の規模や経営状況を鑑みて、その人にどこまで環境を与えつづけるのかという、場合によっては厳しい判断も必要になるでしょう。
ちょっと余談ですが、Kコーチは超絶エリートです。開成高校からの東大現役合格、首席卒業だったはずです。しかも、子どものころからサッカーではキャプテンで、受験になってもサッカーやめずに両立したという。。。一時期日銀のK総裁の秘書をやっていたようで、今は日銀ニューヨーク支店長です(なのでコーチはお休み)。
サッカーも受験も諦めず両立していますから、負けず嫌いだけでなくさまざまな能力を持っている人なんだろうと想像できますが、何よりも「自分に勝つ」能力が高いことがその礎だと思います。
結果を出す他のヘッドコーチも、学歴こそ高くありませんが、子どもたちが畏怖の念を抱いていますし、話していて地頭の良さを感じる、まるで「Nontitle」の朝倉未来やヒカルのような感じです。
さて、結局「負けず嫌い」は大切だと言えるものの、その能力が備わっていない人にどのように身につけてもらうかの結論までは言及できない中途半端なコラムとなってしまいました(すんません)。
強いて言うなら、指導者(スポーツでも会社でも)の立場にある人ができることは、「勝つ喜び」をメンバーに感じさせることなのかもしれません。まあ、経営においてそれができれば苦労しないんですけども。。。カンタンではないですが、私も自分に負けずその方法を追求しようと思います。
ところで、「負けず嫌いは大切」といいつづけていますが、実はこれは何も「人に勝ちつづけなければいけない」ということではありません。
もちろん、「どうすれば勝てるのか?」という世界で生きている人たちも大勢います(スポーツ選手とか)。
しかし、視点を切り替えるならば、「どのポジションなら人に勝てるのか?」「どんな道を選べば人に勝てるのか?」に活路を見出すことができます。
私自身がそうでした。勉強もスポーツもクラスの人気も誰にも勝てなかった「普通コンプレックス」の私は、負けつづけていたからこそ、いつのまにか「どうすれば」ではなく「どこだったら」という視点に切り替わっていました。
その結果、怖いながらも人と違う行動をすることに踏み切ることになりました。その経験は、受験、就職、バンド活動、起業のすべてにおいて活きることになりました(ちなみに、「どうすれば」ではなく「どこだったら」はビジネスにおいても非常に重要な視点ですね)。
負けず嫌いなのに負けつづけていたからこそ、なんとか勝ち筋を見つけようともがいたわけです。自分が輝けるものを探しつづけたわけです。
つまり、負けに唯一価値をつけてくれる条件は、負けず嫌いであるということです。悔しくてなんとかしてやろうと奮起できるとき、負けにはじめて価値がつきます。
だから、一見優しい言葉を投げかけて「負けて悔しがる」という感情を奪うことは残酷な行為なわけです。
優しい言葉だけかければ、確かに嫌われることはありません。でも、それは相手の未来よりも嫌われたくないという自分の感情を優先させる行為です。自分に負けています。
なにより、「負けず嫌い」の要諦は、「誰かに、何かに勝とうとするなら、まずは自分に勝たなければならない」ということ。
勝つための努力が他人から批判されることもあるでしょう。その場合は孤独に勝たなければなりません。それは自分との勝負にほかなりません。「誰かに勝たなくてもいい」や「自分が勝てる場所を見つけなくてもいい」はとりも直さず自分に負けているわけです。
なんだか説教くさいコラムになってしまいましたが、この年末年始で「Nontitle」を見ていて、そして、自分の少年サッカーチームが年末の大会で予選敗退したのに誰も悔しがっていないのを見て、やっぱり負けず嫌いって大切な能力なんだなと感じたのでお話させていただきました。
うちの会社はもしかしたら「体育会系デザイン会社」なのかもしれません(笑)。
あ、負けず嫌いだからといって、他人を蹴落として勝つという手段を取る人はちょっと違うので、そこは補足しておきます。あくまで自分に勝つ、です。
今回はここまでです!
津久井
投稿者プロフィール
-
ロゴ専門デザイン会社ビズアップを2006年に創業。
かつてバンドで大手レコード会社よりCDリリースするも、大事なライブ当日にメンバー失踪、バンドは空中分解。その後「社長になりたい」と思いすぎてヨメの出産5ヶ月前という非常識なタイミングで、各方面から非難を受けながらも独立、5ヶ月でビジネスを軌道に乗せる。
2009年から毎週書きつづけているコラムでは、ブランディングやデザイン、クリエイティブについてかなり独特な視点で切り込む。レインボータウンFMでパーソナリティも務めている。
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