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4月13日(土)、東京で何があったかご存知でしょうか?
本日はいきなりコロコロニュース。4月13日はもしかしたら歴史的な日だったかもしれません。東京で大規模なデモがありました。
内容としては、お注射の責任について、パンデミック条約の反対、地方自治法の改正反対などなど。日本人は自分たちでも政治を動かせると知ったほうがいいでしょうね。
しかし問題があります。このデモの件、いったい日本人の何人が知っているでしょうか?
なんと、このデモを報じた大手メディアは皆無。かろうじてYahooニュースが取り上げたようですが、テレビは黙殺。そういうことです(悟)。
注射で旦那さんを亡くされた方のツイート
(河野デマ太郎はこのひとをブロックしている)
私が一番伝えたいのは、日本のマスコミは信用してはいけないということですね。この国をコントロールしているのは政治家ではありません。一部の官僚とメディアですのでね。
さて、本日のお話です。
なぜ部下や外注先に話が通じないのか、与えた案件に対して部下が理解していない成果物を出してくるのか、なぜ外注先は約束の期日を守ろうとしない(ちょっと過ぎたりする)のかとか、そんなことを解消する一助になるかもしれません(ならないかもしれません笑)。
●「本質(的)」と「程度(問題)」とは??
「本質」とか「本質的」という言葉を聞いて、みなさんはどう思いますか?
これらはとても抽象度が高い言葉で、一見理解しづらい言葉だと感じますが、私なりに定義があります。それは、
- 「程度」に左右されないもの、こと
ということです。
これでもまだちょっとわかりづらいですね。例を出しましょう。
仕事の締切を1日過ぎたりする社員や外注先がいたりしませんか?これ、よくないですよね。なぜこんなことをするのか。それは社員や外注先が「1日程度なら過ぎてもいいだろう」という感覚を持っているからだと考えます。
しかし、実際には約束した期日を守らないのはダメです。それが15分でも1週間でも同じです。本質的には「期日を守る」ことにおいて15分とか1週間とかの「程度」は関係ありません。
程度に左右されないものごと、これが本質(的なもの)です。
ちなみに、こういう社員には決まって言う、ちょっと意地悪なセリフがあります。
「じゃあ、おれも1日とか2日くらいなら大丈夫だと思うから、次の君の給料の支払いを遅らせるわ」
すると、社員はだまります(笑)。
社員や外注先は時間の程度だけでなく、「遅らせていいことといけないことがある」という程度問題を勝手に持ち合わせてしまいます。「仕事の期日は遅らせてもいいけど、給料は遅らせたらダメ」と勝手にマイルール的な感覚を持っている、これも程度問題の一種です。
本質的には、時間が長いか短いか、約束の内容が何か、に関わらず期日を遅らせるのはダメだし、どうしても遅らせなければならないならそれ相応の手順(事前の報告や承認)を踏まなければなりません。
もうひとつ例を。これは仕事の話とは離れますが。。。
以前、このコラムを読んでくださっている方からメッセージをもらったことがあります。勉強になる内容だとお褒めいただきつつも、私のコ□ナやワクワク注射に対する考え方には疑問がある、という内容でした。
私の考え方に賛同するかどうかは正直どうでも良いです。なぜならそれは「程度問題」だからです。100%同意する人もいれば、70%くらいは同意する、80%同意できない、など人によって程度は様々です。
ただ、ワクワクパスポートに関してだけは私はその方の意見を否定したかった。
ワクワクパスポートによって就職や就学、さまざまなことが規制、強制される世の中には絶対にしたくない、という私の意見に対し、その方は「ワクワクパスポートを導入した他の国はそうなっていないから日本も大丈夫ですよ」といった趣旨の返答をされました。
これは本質的ではないと私は考えます。導入した国がどうなったかは程度問題でしかなく、やろうと思えば強制できてしまう仕組み、構造こそが本質的な部分だというのが私の主張です。結果は程度による相対的なものでしかありません。
今議論されている憲法改正も、「国民主権」の部分をカットするわけですから構造上国民に「強制」させることができるわけで、明確に反対。ワクワク注射のみならず、「労働」「教育」「納税」の三大義務以外は「任意」で個人の責任において選択すればよいという構造だけは絶対に崩してはいけないわけです。
マイナンバーに銀行口座を紐づけるのも同じです。これも、「いやいや、マイナンバーに銀行口座を紐づけても国は悪用なんかしないでしょ」という人が多いですが、構造としてはいくらでも悪用できてしまう。
しかもこれ、「マイナンバーに銀行口座を紐づけますか?」という書類が届くそうですが、それに「紐づけ拒否」という返送をしないと「紐づけOK」と解釈され勝手に紐づけられるらしい。やっている手口は詐欺と同じです。
ちなみに「悪用」とは、私のようにこういう「思想の強い(笑)発信」をしているやつの口座を凍結する、などです。マイナンバーと銀行口座の紐づけ、デジタル通貨でそういうこともかんたんにできちゃう。やるかやらないかではなく、できる構造が問題。
話が思想が強いほうにかなり脱線しましたが(笑)、構造こそが本質、という話は社内のルールや仕組みでもまったく同様のことが言えます。
たとえば、お金を横領できるような環境がある会社があるとします。
しかし、そこの社員はみんな良い人ばかり。だから横領できない環境や横領したときの罰則などは必要ない、というのは非常に危険な程度問題です。やろうと思えば構造上できてしまうということにこそ、本質的な問題があります。
人間なら魔が差してしまうということもあるかもしれません。社内で悪いことができないルールや環境を整備することで、社員を疑う必要がなくなり、より良好な関係を築くことができるわけです。どちらが本質的でしょうか?
仕事においても生活においても、約束、仕組み、ルールなどの面でこういった事例は枚挙にいとまがありません。それは、「本質と程度の切り分け」ができていないことがほとんどの原因だと考えます。
●なぜ本質と程度の切り分けができない人が多いのか?
社員や外注先をちょっと悪くいうような論調になりましたが、そこが言いたいことの本質ではありません。社員や外注先に限らず、人間は社長だろうと誰だろうとこういった「本質と程度を見誤る問題」を起こす可能性があります。
なぜこういった問題が起こるのか。本質的な部分に目を向けることができず、程度問題に左右されてしまうのか。それは「本質と程度」には誰もが勘違いに陥りがちな非常にむずかしい側面があるからです。
それは何かというと「程度問題が本質の場合がある」ということです。
ちょっと何言ってるかわかんない(サンドウィッチマン)かもしれません。本質と程度はある種対極にありそうにも関わらず、程度問題が本質?と。。。「程度に左右されないのが本質」って言ってたよね?と。。。これも例を挙げてみましょう。
たとえば、食事はどうでしょうか?健康のために、またはダイエットのために、「何を食べるか」「どのくらい食べるか」という程度こそがポイントになってくるはずです。間違っても「構造上食べるか食べないかの2択」ではないはずです。
基礎代謝や1日の運動量から、消費カロリーの「基準値」があって、それに「程度を合わせる」ことで痩せたり、体重増加させたりといったことをするわけです。
筋トレもそうでしょう。「筋トレをやるかやらないか」ではなく「何回やるか」という程度こそが本質です。
ベンチプレス100kgを上げられる人が1日5回の腕立て伏せでは意味がないわけですし、おばあちゃんに腕立て100回やらせることにもほとんど意味はありません。おばあちゃんなら毎日3回とかでもいいと思う。
このようなケースの場合、「程度こそが本質」となります。
しかし、「程度」というのはとても定性的なもので、人によって感覚、感じ方が違いがちです。だから締め切りを1日遅らせたり、でも給料日を遅らせるのはダメと思っていたりする人が出るわけです。
ここで重要なのが、先ほどの例にも挙げましたが「基準値や許容範囲を設定する」という考え方です。どの程度であれば最適なのかを数値で見える化するわけです。
こうすることで、「程度こそが本質」の場合のフワフワした定性的な部分が解消され、ルールや仕組みとして機能しはじめます。
コンビニのレジのお話はこれをよく物語っています。「レジにひとりも並ばせない」という対応は物理的に不可能に近いため、「レジが混まないようにする」という方針が示されます。この場合、程度が本質です。
しかし、「どれくらいだと混んでいるといえるか」は人によって程度が違います。これを解消するために、「レジ待ちで2人以上並んだら、もうひとつのレジを開ける」という基準値を含めたルールが設定されています。
「仏の顔も三度まで」などはものすごくよく「程度が本質」を表していますね。人間誰しも過ちを犯すもの。だから過ちを絶対に犯さないということは本質になりえない。では「どの程度まで」過ちが許せるのかの基準として3回としているわけですね。
このコラムを書いていて思い出しましたが、そういえば私は子どものころ、「おやつ」のことで親によく怒られていました。当時の津久井少年は家にあるせんべいやらなにやらをすべて食い尽くしてしまうのです。オカンが買ってきて食べられないように隠しているお菓子類も、必ず見つけ出して食べていました。
オヤジによく言われました。「お前は加減を知らんのか!」。当時の私は本質と程度の問題がわからず、「何ごともやり切る(食べ尽くす)」ことこそが本質と思っていたのでしょう(笑)。
●「公共性」は究極の程度問題かもしれない
以前、ネットニュースで、ソニーの純利益が1兆円を超えたと流れていました。
今の日本で純利益が1兆円を超えている企業は、ネットで調べると2023年(2022年度)は10社のようです。400万社ともいわれる日本の企業の中で、たったこれだけ。
つい数年前(5〜6年前かな?)に私が聞いた話だと、そのときは3社しかありませんでした。トヨタ自動車とNTT、そしてソフトバンクです。
余談ですが、そのNTTが外資に売り飛ばされるかもしれない法案が可決されました。これも売り飛ばされるかどうかはわからないじゃないかという人がいますが、売り飛ばすことができる構造が問題です。
さて、純利益1兆円、すごいです。どうやったらそんな額の利益を叩けるのか。そう思った反面、ふと感じてしまったことがあります。
「そんなに利益を出してどうするんだ?」
お金に関することも、実は「程度こそが本質」という話だと考えます。企業としていくらの利益を出せばよいのか、個人としていくらの資産を貯めればよいのか。。。みなさんはどうですか?
年収が2000万円の人で、それ以上稼いでもたいして生活は変わらないという人もいますし、やっぱり5000万とか1億とか稼いでいる今のほうが2000万円のときより幸せだという人もいます。年収200万円でも人生を謳歌していると実感できる人もいるでしょう。
ここは個人の人生観に基づいた程度問題で、意見が非常に分かれるところではないでしょうか。基準値を設けられるような話ではないのかもしれません。
ソニーのニュースを見て感じたことのひとつがこれ。「そんなに稼ぐ必要ある?」「いくら稼いだら満足なんだ?」です。答えのない程度問題。
そしてもうひとつ感じたこと。それは「これだけのお金があれば日本をもっとよくできるのでは?」ということです。
でも利益をどう使うかは稼いだ企業の勝手でしょ、というのが本質といえば本質という考えもあります。
「企業はどの程度を稼ぎ、その程度を超えた分をどう使うのか」は、果たして稼いだ企業の自由だというのが本質なのか、それともそうではないのか。
ここに、「民間企業の公共性の程度はどこにあるのか?」という問題が浮上します。
たとえば、コ□ナ禍になってから、飲食店では「マスクをしていない人の入店はお断り」しているところが多くありました。個人的にはバカなんじゃないのかと思いますが(失礼)、誰をお客さんにするかはその店の自由だというのが本質であり、公共性という程度問題をここに持ち出すのは本質的ではありません。
私たちも不遜な人や横暴な人などはお客さまにはしていません。誰をお客さまにするかは私たちの自由です。
しかし、このロジックで考えると、昨今取り沙汰されている「水道民営化」はどうなるでしょう。
民間企業が誰をお客さんにするか自由に選べるという公共性を無視した経営を本質としてしまうと、水を使うことができない人が出てきてしまいます。「あなたには水を売らない」とか「毎月10万円の水道代を払える人だけお客さんにする」などができてしまうわけです。
なので、いくら民間企業とはいえ公共性を無視したらとんでもないことになりますし、そもそも民営化してはいけないというほうが本質的だと考えます。
水道などの問題は比較的わかりやすいかもしれませんが、たとえばYou Tubeなどのサービスはどうでしょうか。民間企業だしインフラではないからYou Tubeの勝手でしょ、となるでしょうか。
トランプさんが負けた(不正選挙だと言われています)アメリカ大統領選挙のあと、バイデン爺が演説をYou Tubeにアップしました。
そのとき「低評価(BADボタン)」が「高評価(GOODボタン)」を遥かに上回りました。その差は10倍以上だったかな?まるで選挙疑惑を裏付けるように。おじいさんはどうやら250万もの「BAD」を獲得したようです。
ほどなくして、「日本のスーパーセールスマン(日本の大切な資産を海外に売り飛ばす達人)」竹◯平蔵氏がYou Tubeチャンネルをはじめた際も、ものすごい勢いで「BAD」とアンチコメントがつきました。
その後You Tubeは何をしたか。なんと「高評価(GOODボタン)」の回数は見えるが「低評価(BADボタン)」の回数は見えなくしてしまいました。他にもYou Tubeはコ□ナやワクワク注射、ウクライナ問題など、一定の人たちに都合の悪い情報を提供する動画を排除しています。
その最たるものは、テレビや新聞などの大手メディアですね。冒頭のデモのお話なんか好例です。
さて、これも民間企業であるYou Tube(Google)や大手メディアの判断で自由にやることこそが本質なのか、それともYou Tubeに限らずこういった企業(事業内容なのか規模なのかわかりませんが)には公共性を程度問題として求めるのか、どの「程度」まで公共性を求めるのか、それとももはや民間企業であるべきではないのか(やや暴論 笑)、どれが本質なのやら。。。
こういった媒体や日本のテレビ局などを見ていると、「株主」というのは公共性と対極の存在なのかもとも思ったりもします。資本主義の限界でしょうか。そして資本主義の最終形が全体主義(≒共産主義)だったなんて、悲しくて笑えてきます。どんなブラックジョークだ。
もう少しビジネス寄りのお話にしようと思ったのに、やたらと思想が強くなり反省です。とりとめのない話になってしまいましたが、最後にまとめてみます。
とにかくビジネスにおいては、ある事象があったときに、その問題の「本質」は「程度に左右されてはいけないもの、こと」なのか、それとも「程度問題こそが本質」なのかを明確にすること。それを部下や外注先にも理解してもらうことが重要です。
そして程度問題に関しては、必ず基準値や許容範囲を設けて定性的(感覚的)な部分のすり合わせをお互いにすることです。
- 本質的な問題を程度問題にすり替えてしまっていないか
- 程度問題を感覚的なままで放置していないか(基準値や許容範囲を設けているか)
御社で起こる問題はこのあたりが整理されていますか?
ちなみに、我々のようなデザインの仕事は、ほぼほぼ程度問題(お客さまや消費者の感覚)であるとともに、数値化しづらくとっても明確にしづらいお仕事です。そこを明確にする技術は、私たちビズアップの強みです(すんごい難しいですけど)。
今回はここまでです!
津久井
投稿者プロフィール
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ロゴ専門デザイン会社ビズアップを2006年に創業。
かつてバンドで大手レコード会社よりCDリリースするも、大事なライブ当日にメンバー失踪、バンドは空中分解。その後「社長になりたい」と思いすぎてヨメの出産5ヶ月前という非常識なタイミングで、各方面から非難を受けながらも独立、5ヶ月でビジネスを軌道に乗せる。
2009年から毎週書きつづけているコラムでは、ブランディングやデザイン、クリエイティブについてかなり独特な視点で切り込む。レインボータウンFMでパーソナリティも務めている。
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