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2016年03月04日 ビズアップの歴史 メールマガジン 【第321回】小学1年生のときに死にかけた話

2016年05月20日掲載開始

こんにちは。
ロゴ作成専門ビズアップ 津久井です!
https://www.biz-up.biz
※今日のメルマガはとっても長いです。
お昼時や3時のおやつのときなどに
休憩がてらお読みください!
3月に入りましたね。
昨日はひなまつり。
昨年夏に生まれたむすめは初節句です。
おのろけコーナーとなりますが、
むすめがかわいすぎて困っています。
我が家は3人兄弟ですが、
上ふたりが男、しかも歳も
9歳ともうすぐ7歳ですから、
生後6ヶ月のむすめは
文字通り目の中に入れても痛くないくらい
かわいくてたいへん困ります。
かわいすぎて
クレームを言おうかと思っちゃいます。
「かわいすぎ!困ります!」と。
そんな私ですが、
私の両親にとっても子どものころの私は
目の中に入れても痛くないほど
かわいかったのでしょう
(突然何を言い出すんだ。。。)。
先日、
Facebookを見ていたら
2年前に自分で投稿した記事が
目につくところに上がってきていました。
その投稿は
とある回のメルマガをそのまま
アップしたものだったのですが、
読み返してみたら超手前味噌ですが面白い。。。
それを読んでくれた
お友達のコメントもいつもよりも多く、
みんなアツいコメントをくれていました。
「小説家になったほうがいいよ」
というこっ恥ずかしくも
うれしい書き込みももらえたりして。
今週のためにいくつかネタも考えたのですが、
もう一度その号を紹介してみたくなりました。
その号というのが、
実は私の両親の話なのです。
そう。
まさに両親がたぶん私のことを
目の中に入れても痛くないと
感じていたころからのお話。
本日は
加筆修正したリバイバルバージョンで
お送りしたいと思います。
と、
その前に「成功者の告白」
という物語をご存知でしょうか?
これは伝説のマーケッターと呼ばれる
神田昌典さんが書いたビジネス小説です。
主人公が会社を辞め独立してから
会社の成長とともに起こるさまざまなトラブルを
どのように乗り越え成長していくかを描いています。
小説なのでフィクションではあるのですが、
ストーリーの展開は、実は何人もの社長に
綿密にインタビューしてできあがったもので、
これを読んだほとんどの経営者が
このとおりのことが起こると
口をそろえて言います。
私はというとこの本を
独立の直前に読みました。
今から10年前です。
10年前の私は
まだ経営者ではなかったわけですが、
それでもこの本を読んだ時に
ゾッとしたことを今でも覚えています。
なぜなら、
「成功者の告白」に書いてあることは
まさに私の父親と両親が経営する会社にも
完全に当てはまっていたからです。
私の両親は
私に対してわりと厳しい人でした。
ほめられたことはほとんどありません。
特に父親にほめられたのは1回しか
覚えていません。
大学に受かった時にひとことだけ
「おめでと」
以上です。
母親の口グセは
「勝って兜の緒を締めよ」でした。
ちょっといいことがあったり、
勉強などでいい成績を出してもほめるどころか
「勝って兜の緒を締めよ」と言われる始末。
一度、高校2年生の時に
数学の偏差値が東京都全体で28番になったのですが
(両親がほめてくれないのでここで自慢します 笑)、
その時も、
両親がほめてくれないことはわかっていました。
でもどうしても誰かにほめてもらいたくて、
遊びに来た親戚のおばさんに28番になったことを
告げました。
すると、
そのおばさんが帰った後に母親に説教されました。
「さっきのあれはなんだ、みっともない」と。。。
新聞配達のバイトが辛くて3ヶ月で辞めた時も、
両親に根性なしだとかなんだとかさんざん言われました。
「仕事っつーのはそういうもんじゃねぇ」とかなんとか。
さて、
そんな厳しい両親でしたが、
私が社会人になったころから
「解禁」だと思ったのか、
母親が
私の知らない昔の父親の話を
するようになりました。
その時に
・実は転職歴が30回くらいあった
・仕事はダメダメですぐ会社を辞める
・毎日夜中まで麻雀をやっていて身体を壊して入院
・最後の会社もつづかなかったら
 生きていてもしょうがないので
 自殺でもしようかしらと考えていた
などなど、
元ダメ人間だったことが判明しました(笑)。
思い返してみると、父親は
会社を経営してからもすごく平たく言うと、
「人に厳しく自分に甘い」人でした(苦笑)
父親は上述の通り、
最後の転職で
「ここでつづけられなかったら死のう」
と思ったそうです
(本当かどうか知りませんが 笑)。
そんな折、
入社してすぐに会社の夏休みがありました。
そして当時すでに結婚していた母親と
千葉の海に泊まりで遊びに行ったそうなのですが、
なんと、
「これでダメなら死のう」とまで思ったくせに
夏休みが明けても海から帰らなかったらしいです。。。
母親も母親で、
そんな父親にハッパかけるわけでもなく
そのまま1週間くらい無断欠勤。
これで母親と海で入水自殺でもしようものなら
リアル太宰治かというほどの人間失格ぶりなわけです。
夏休みが明けて数日後、
鬼のように厳しかった当時の社長に
怒鳴りちらされる覚悟で辞表を持って
会社に出勤したところ、
「どうしちゃったの〜、つくいく〜ん
 がんばろ〜よ〜」
と猫なで声で
引き止められたそうです。
それで
「これこそ本当に最後のチャンスかもしれない」
と感じ、急にやる気スイッチが入った父親は
この会社で5年間務め上げ独立します。
これが
富山の置き薬やさんの会社だったわけですね。
●
父親の会社ができたのは、私が3歳ころのことです。
私も記憶が曖昧なのですが、
父親は独立前にいた会社のビジネスを
のれん分けに近い形ではじめます。
業種は家庭配置薬業。
「富山の薬屋さん」と言ったほうが
わかりやすいかもしれません。
東京の練馬で開業しました。
富山の薬屋さんは
フリーミアムの先駆けとも言える
すごいビジネスモデルで、
さまざまな薬が入った箱を
無料で各家庭に置いてもらいます。
そして、
営業マンが1〜3ヶ月に1回集金に行き、
使った分だけの料金をちょうだいしてきます。
はじめは自宅を事務所にして、
母親と2人ではじめました。
3歳の津久井少年は、
家で薬箱に薬を詰める仕事を手伝っていました。
当時は
仕入先のメーカーさんが
ものすごくよい支払い条件で
薬を仕入れさせてくれて
軌道に乗せることができたそう。
景気も良い時期だったし
人にもしっかりと恵まれていたんですね。
そのうち、
前の会社の同僚や後輩が父親の会社に入社してきます。
気心の知れた仲間たちが加わったわけです。
私が小学校に入る直前には事務所を自宅から移し、
いよいよ会社らしくなってきます。
しかし、
ここで最初の問題が起きます。
私(7歳の津久井少年)が死にかけます。
●
成功者の告白には、
このこともしっかりと書かれています。
両親は
忙しくなってきた会社を切り盛りすることで
精一杯だったのかもしれません。
かまってもらえない子供や仲が悪い夫婦の子供は
無意識のうちに以下のような行動を取るそうです。
・グレる(悪いことをする)
・病気になる
なぜこのようなことになるか、
それは
・両親が協力せざるを得ない環境をつくるため
・子供のために時間を使わなければいけない環境にするため
と言われています。
当然、
子供ですから計画的に
そんなことができるわけありません。
引き寄せの法則、
無意識の力というのは
ものすごい強力なんですね。
さて、
津久井少年の病名は重度の肺炎。
80〜90歳で棺桶に
片足突っ込んでるくらいのご老人でも
一人か二人いるかいないか、
というところまで血液の数値が悪化。
学校は2ヶ月くらい休みました。
薬屋の息子が病気、ほとんどギャグです。
入院はしませんでした。
別に病院が薬屋の競合だから
というわけではありません(笑)
当時のお客さまが紹介してくれた町医者の先生が
ものすごく優秀だったからです。
この先生の
「この子は入院させちゃいけない。
 気力がなくなったらやばい」
という言葉で
両親は入院ではなく
自宅療養を選択したのでした。
当の津久井少年は
先生の作戦がハマったのか、
自分の病気の重大さに
まったく気づいていませんでした。
一日中布団で
横になっていなければならなかったのですが、
おみやげなど一度も買ってきたことのない父親が
当時流行っていたゲームウォッチを買ってきてくれたり、
アニメソング集のカセットテープを買ってきてくれたり。
めったにないことだったので
ものすごくはしゃいでいました。
とても死にかけているとは
思っていませんでした。
本人は気楽なもんです。
そんな中、
病院の先生は長引く病状の解決策として
私にものすごく強い抗生物質を飲ませる決断をします。
副作用が心配だという母親に
「でも、(命を)持ってかれたらしょうがねえだろ!」
と言ったといいます。
まあ、
私は自分でも頭がオカシイ部類の人間だと思っていますが、
今思うと当時の薬の副作用かもしれません(笑)。
先生の判断と本人のお気楽さで
ひとまず命だけは持っていかれずに済みました。
ちなみに病気になる何ヶ月か前に
母親とこんなやり取りがありました。
津久井少年
「夕飯にビーフシチューが食べたい」
津久井母
「そんなもん、(仕事で)クソ忙しいのに作れるか!」
肺炎の時に、
なんとビーフシチューが出てきました。。。
もう本当に死ぬと思ったのでしょう。
最後に旨いもん食わせてやろうという(笑)。
●
津久井少年が8〜9歳のころ、
父親の会社「太平薬品株式会社」は
従業員数も7〜8人になっていました。
そのうちの5人くらいが営業マン。
中には前述の元同僚や後輩もいます。
そして、
このころになると会社に暗雲が立ち込めてきます。
気心の知れたはずの仲間が
父親に対して心を閉ざし、反発し、
まじめに仕事をしなくなります。
朝はみんなで会社の外にたむろし、
たばこを吸いながら父親の悪口をいう状況。
当然、
会社としての成長など望むべくもない状態。
父親も相当ストレスだったでしょう。
起業してから初の組織的試練。
それを救ったのは一人の新入社員でした。
父親は当時、
車にはまったく興味がない男でした。
なので
プライベートで遊びに行くときも
薬を積んだままの軽の営業車。
そして、
構えている事務所もとても立派な建物ではなく
古くてボロボロの木造家屋。
そんな中、
ピカピカのトヨタのマークツーを
乗り付けて面接に来た一人の男。
「本当にここか??」といった
怪訝な表情を浮かべながら入ってきたその男は
名前を「大谷(おおたに)」と言いました。
大谷さんは
同じ家庭配置薬業の仕事をしていた経歴を持ち
年は30手前くらいでした。
面接に即合格し入社した大谷さんは熱い人でした。
「オレは一生社長についていきますよ!」
と大谷が言ってくれたと
喜んで母親に話す父親を今もよく覚えています。
大谷さんの影響は絶大で
まず父親は車をマークツーにしました(笑)。
大谷さんより前からいた営業マンは
毎朝の儀式(たむろ)に大谷さんを呼びつけ、
「お前もこっち派になれ」といった
中学二年生の派閥争いのようなしょうもないことに
大谷さんを巻き込もうとしたそうなのですが、
大谷さんはきっぱりと断ります。
そして
大谷さんは仕事ができる人でした。
会社の売上も伸びました。
また、
大谷さんは自分の後輩や元同僚など
見どころのある人間を太平薬品に
引きこもうとしました。
そういった人が2人くらい入ったころには、
たむろしていた営業マンが少しずつ退社し
最終的には全員いなくなっていました。
メンツがまるっきり入れ替わってしまったのです。
時代はバブル全盛ということもあり、
そしてできる営業マンが一気に増えた
(6〜7人くらいになった)ことで
会社は伸びに伸びます。
大谷さんひとりが入ったことがきっかけで、
どん底だと思われた太平薬品はV字で復活しました。
父親と従業員の仲もよく、
我が家にみんな遊びに来て酒を呑んで
場合によっては泊まっていく、
なんてこともしょっちゅうでした。
こういった会社が
丸っと生まれ変わってしまうようなことも
成功者の告白にはしっかりと書かれています。
●
成功者の告白にはこんなことも書かれています。
・あるタイミングで社長に愛人ができる
父親の「そのタイミング」も
本に書かれていたタイミングと
ドンズバで当たっていました。
確証はないのですが、
おそらく私が小学6年生から中学1年生のころに
父親に愛人がいたように思います。
母親との中も悪くなり
冷たい空気が流れていました。
私自身も
「新宿のLと言いますが津久井社長いますか?」
という思い詰まったような声の女性からの
電話をとったことがあります(笑)。
まあ、
それは今思うと店の子か(笑)
そして
しかるべきタイミングだったのでしょう。
私(13歳の津久井少年)がまた病気になります。
急性腸炎で入院しかけました。
このときは正直死ぬかと思うくらい苦しかったです。
汚い話ですが、
40度以上の熱がある中、
上から下から止まらず
トイレから出られませんでした。
出てきても気持ち悪いか
下痢のどちらかで1分後にはまた
トイレに戻らずを得ない状況。
この時は
病状としては肺炎の時ほどではなかったのですが
42度の熱が3日くらいつづきましたし、
体感では前述のとおり肺炎よりはるかにきつかった。。。
病院で点滴をうける私を
心配そうに見ている両親の顔をよく覚えています。
それをみて本当に死ぬかも(悪い病気なのかも)
と思いました。
結局このときは
旅先(親戚の家)でのできごとだったのですが、
病院でベッドが空いておらず入院できず
追い返されるという状況でした。
なので、
なぜか今まで入院したことが
結果的にありません(笑)。
結局、一週間は断食の回復食のような
味のない重湯と味噌汁の上澄みしか
口にできませんでした。
親戚の家(長野)から東京に帰る体力もなく
学校も1〜2週間くらい休みましたかね。
母親は僕のせいで仕事に戻れませんでした。
そのころの太平薬品は
仕事は可もなく不可もなく。
景気はバブルも崩壊に向かっていました。
第二創業とも呼べるタイミングで入社し
会社をV字回復させた営業マンたちは、
ある者は残り、ある者は独立し、
ある者は転職していきました。
新しく入った営業マンは
仕事はできるとは言いがたく。。。
会社の勢いはすっかりなくなってきていました。
そんな中、
第2の組織的試練(トラブル)がやってきます。
そのトラブルを起こしたのは、
会社のNo.2、大谷さんでした。
●
とあるお客さまからクレームが入りました。
「おたくの社員の大谷さんはとんでもない人だ!」
事情をお聞きすると
耳を疑うような話でした。
なんと、
大谷さんがお客さまに
「金を貸してくれ」と言ったというのです。
大谷さんを問い詰めてみると
なんとそのお客さまだけでなく
数人のお客さまに声をかけており
中には
本当に貸してしまったお客さまもいたそうです。
太平薬品株式会社は
決して給料の安い会社ではありませんでした。
安いどころか、
むしろ仕事が出来る人には成果報酬で
100万くらいの月給は出していました。
大谷さんも然りでした。
そして
大谷さんの奥さんは保険のセールスレディーで
ボーナスは100万円くらいもらうほどの人でした。
なのに
米を買う金すらない、ということでした。
電気やガスもひどい時には止められていたそうです。
原因は子供です。
子供に対しての見栄が度を超えていました。
高い私立の幼稚園に通わせブランド物の子供服を着せ
高い塾に行かせてお受験をして。
稼いだお金をみな子供につぎ込んでいたのです。
お金がなくなってもそれを止めることができず、
感情のコントロールを失った大谷さん。
それでお客さまに
「金を貸してくれ」などという
とんでもないことを
言って回っていたわけです。
そして、
大谷さんは会社を去ります。
私が高校生の時でした。
家族ぐるみの付き合いをしていた
太平薬品No.2の大谷さんが
辞めると聞いた時の驚きは
私の中でも本当に計り知れないものでした。
そして
太平薬品は大丈夫なのだろうか、
と心配になりました。
時はバブル崩壊後の
不景気のまっただ中。
営業マンも仕事に対しての
情熱を失った人ばかり。
会社の雰囲気は悪く、
家では父親と母親の会社への
愚痴をよく聞くようになりました。
こんなこともありました。
新人を入れようということになり
面接に来た若い男を父親が大いに気に入り、
喜び勇んで家に帰って母親に
「あいつはいいぞ〜!」
と興奮しながら伝えたその新人が
1週間で飛ぶ(会社に来なくなる)とか。。。
太平薬品の仕事は基本的に
一日中車を使っての営業なので、
自分の彼女を
車に乗せて仕事を適当にする、
なんていう新人もいました
(こういうことは結局バレる)。
仕事はできないけど
一生懸命だから諦めずに育ててみようと
父親が懇切丁寧に教育をしていた別の新人は、
そもそも車の運転が下手でよく事故っていました。
車を使う仕事で
運転が下手なのは致命的です。
事故や免許停止などになったら
とんでもないことです。
次に事故ったら
免許停止(≒クビ)というある日、
東京に雪が降りました。
父親は免停直前のその従業員に、
「いいか、雪だからな、ブレーキ踏むなよ」
と言いました。
スリップしたりスピンしたりするから、
ブレーキをかける時は気をつけろよ、
という意味だったのですが、
その人は
本当にブレーキを踏まず、
前の車にオカマを掘り
免許停止になりました。
大谷さんが辞めてからというもの、
反抗する社員がいるとか、
悪いことをする社員がいるとか、
そういったはっきりとしたトラブルではなく、
やる気がない、
稼げなくても暮らせればいい、
仕事なんて仕方なくやっているだけ、
こういう社員ばかりになってしまい
いつのまにか蝕まれていく病気のような状態に。
またしても組織崩壊の危機でした。
何より、
当の父親自身もたいして
やる気があるように見えませんでした。
社長のくせに
軽く出社拒否症になってました(笑)。
会社は
できてから15年くらい経っていました。
そして
ここで奮起したのは母親でした。
●
当時の母親はスーパーマンのような人でした。
朝5時に起きて風呂に入り、
出てから朝飯と私の弁当をつくり、
父親と私を送り出してから洗濯と掃除。
掃除機は先端が細いノズル
(隙間などに入るやつ)を標準仕様にしており、
じゅうたんや床を這いつくばりながら
隅から隅まで毎日掃除していきます。
母親にとってはノズルは消耗品。
毎日家中を掃除機の「ノズルがけ」するので
鉛筆のようにどんどん削れていってしまうのです。
そんな家のことをひと通り済ませて
10時までに会社に出社。
営業部長をしていた母親は
着いてそうそう電話をかけまくり
アポを取って営業車に乗って集金に。
夕方は6時半ころ買い物を終えて家に戻り、
1時間で夕飯の支度をして飯を食って後片付け。
後片付けがまたすごくて
キッチンを隅から隅まで毎日雑巾がけしていました。
これが
休みの日を除いて毎日何年も続いていました。
さらに
母親は営業以外に経理的な仕事もしていました。
決算期にはすべての資料をつくっていました。
さて、
当時の家庭配置薬業界は「営業は男」という
迷信的、盲信的、前時代的な考えが
はびこっていました。
太平薬品も例外ではなく、
母親を除いてずっと男の
営業マンを採用していました。
しかし、
やる気が無い男連中(父親含む)が
会社をどんどん蝕んでいく状況で
ある意味「男に見切りをつけた」母親が
営業は女性にすることを父親に提案します。
はじめは父親も抵抗していました。
しかし、
母親の言うとおりなぜか
ダメな男ばかりが集まってしまう状況で、
他に打開策もありませんでした。
そこで父親は決断します。
父親は
東京の家庭配置薬業界にわりと顔が利く人で、
同業者を取りまとめる会の会長なども
一時期やっていました。
なので、
東京で太平薬品株式会社と言えば
わりと業界では知られていたのですが、
その太平薬品が
営業マンをみんな女性に代えているという話は
業界でまたたく間に知られるようになり、
「あそこも終わったな」
という評判が出回るようになりました。
しかし、
成果は目覚ましいものがありました。
業績はまた上昇しはじめました。
会社にも活気が戻りました(戻ったというか
おばちゃんならではの活気になった 笑)。
「もうダメかも」
というピンチで何かが起き、
そのたびに組織がガラッと変わって
また成長をしはじめる。
「生まれ変わる」
という
言葉がもっともしっくり来るようなことが
本当に起こるんです。
こういったことも
成功者の告白にはきちんと書かれています。
成功者の告白を読んでいたら
父親の社長人生とどのくらいリンクするか
おわかりになっていただけるかと思います。
さて、
長くなってしまいましたが、
最後に太平薬品株式会社と
両親のその後をお話します。
会社は結局30年つづきました。
しかし、
ちょうど30年目の2009年、
業績不振を理由に会社を売却しました。
家庭配置薬業界は衰退の一途。
業界一位の富士薬品(TVCMもしている)
ですらドラッグストアを展開する状況。
「買ってくれる人がいるうちに売ろう」
とてもさびしい決断でしたが
会社を売却し、借金を精算して終了。
ちなみに
その2ヶ月後に業界二位が倒産。
もしもそのあとであれば太平薬品を
売却できなかったかもしれません。
なんというタイミング。。。
会社を売却したことで
そこそこの現金を手にした両親は、
「もう一旗挙げたい」
と突然ベトナムに移住。
ハノイの日本大使館前で
日本人向けの居酒屋を開店しました。
偶然ですが、
弊社の林はビズアップに入社する前の仕事で
両親が運営するベトナムのお店に行ったことが
あったそうです。
うちのおかんの生姜焼きを
食べたことがあるという不思議。。。(笑)
店の業績としては
両親が老後の貯蓄をするには
十分すぎるほど利益が出ていたようですが、
体の具合が悪くなって二年弱で帰国。
スーパーマンのおかんは
10kgくらい痩せて
ガリガリになって帰ってきました。
今は父親は墓場、
母親は幼稚園の給食室でパートしています。
やっと落ち着いたようです(笑)
あ、ちなみに
おかんは今でもベトナムに戻りたいと言ってます。
スーパーマンです(笑)。女性は強いですね。
さて、
長くなりましたがお話はここでおしまいです。
本当は、私が大学2年生の時に
両親が太平薬品をほったらかして
ホットドッグ屋を開いて失敗した話(笑)
などもしたかったのですが、
お時間の関係でここまでにします。
ちょっとでも
面白いなと感じてもらえたらうれしいです。
「成功者の告白」、
読んだことがないようでしたら
ぜひ読んでみてくださいね!
最後にもうひとつ。
冒頭に、
父親は一度しか私のことを
ほめたことがないと言いました。
そんな父親ですが、
私の結婚式の最後の親族の挨拶のときでした。
人前で泣いたところを見たことがない父親が
顔をグシャグシャにして鼻水を垂らして号泣。
母親は泣くかな、と思ったのですが、
母親含めそこにいた全員が苦笑、爆笑。
「しっかりしろー(笑)」なんていう
やじも飛んだりして。
私も笑いました。
でもとても感慨深いものがあり
思わず涙ぐんでしまいました。
その時、
父親は厳しいのではなく
不器用だったんだなと理解しました。
きちんと自分のことを
見て気にかけてくれていたんだと。
当たり前ですが当たり前のことに
人はなかなか気づけないですね。
私も子どもができて
やっとなんとなく父親の気持ちが
わかってきた気がしています。
今回はここまでです!
津久井
好評いただいてます。
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投稿者プロフィール

津久井 将信
津久井 将信
ロゴ専門デザイン会社ビズアップを2006年に創業。

かつてバンドで大手レコード会社よりCDリリースするも、大事なライブ当日にメンバー失踪、バンドは空中分解。その後「社長になりたい」と思いすぎてヨメの出産5ヶ月前という非常識なタイミングで、各方面から非難を受けながらも独立、5ヶ月でビジネスを軌道に乗せる。

2009年から毎週書きつづけているコラムでは、ブランディングやデザイン、クリエイティブについてかなり独特な視点で切り込む。レインボータウンFMでパーソナリティも務めている。

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